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コラム 水上のみち

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 第二章では、「境界」としての古利根川について述べたが、河川は地域と地域を隔てる「境界」であるとともに、地域と地域を結ぶ「道」でもあった。
 少々時代の下る資料ではあるが、京都醍醐寺(だいごじ)の堯雅僧正(ぎょうがそうじょう)が天正十四年(一五七六)、四度目に関東を訪れた際の記録である「堯雅僧正関東下向記録」によると、伊勢で乗船し、品川湊に到着し、そこで再び船に乗って利根川を北上した。栗橋の実昌寺、水海道の昌福寺、古河の昌福寺にそれぞれ逗留し、さらに、結城、宇都宮へと向かったことがわかる。
 品川湊は中世において、江戸湾(東京湾)の重要な湊の一つで、伊勢などとを結ぶ海上交通の拠点であるともに、内陸へ向かう河川交通の拠点でもあり、多くの船が行き来していたようである。
 中世において、河川を人や物が行き来したことは、秩父産緑泥片岩によって作られた板碑が広く分布していることからも分かるが、このような河川交通は、鎌倉時代にはすでに利用されていたと考えられる。鎌倉幕府にとって重要な荘園である太田荘や対岸の下河辺(しもこうべ)荘の年貢が利根川水系を船で運ばれ、最終的には六浦津(横浜市)で陸揚げされ、鎌倉に運ばれたようである。
 道路や水路などの交通の要所には、関所が設けられた。関所の設置の目的には、軍事・警察的な側面もあるが、関銭の徴収という経済的側面が大きかったようであり、河関の関銭は、河川の通行料や津(船の停泊するところ)の使用料などとして徴収された。近隣では、鷲宮関(鷲宮町)があり、鷲宮社の神主に管理が任されていた(足利晴氏安堵状「鷲宮神社文書」)。古利根川流域には、鷲宮のほかに、戸ヶ崎・彦名(三郷市)、大堺・鶴ケ曽根(八潮市)などの関もあり、この地域の河川交通が盛んであったことがうかがえる。

2-31 鷲宮町八甫付近の古利根川