享徳(きょうとく)三年(一四五四)末、鎌倉公方足利成氏は、関東管領(以下管領)山内上杉憲忠を殺害したため、室町幕府から追討をうけ、これを契機として幕府・両上杉(山内・扇谷(おうぎがやつ))氏とその執事である長尾・太田氏方と公方成氏方との全面抗争に発展、関東の武士も双方に分裂し、関東全体を巻き込む戦乱に拡大した。鎌倉を追われた成氏は下総(しもうさ)国古河(こが)城(茨城県古河市)に入り、古河公方と呼ばれるとともに、ここを本拠地として、最終的には文明(ぶんめい)十四年(一四八二)に幕府と和睦するまでの約三〇年間にわたって、各地で幕府・管領方と抗争を繰り広げた。この間の戦乱は、成氏が改元に従わず、文明十年ごろまで享徳年号を使用し続けたことから、「享徳の乱」と呼ばれる。
2-32 古河公方館跡
このころの宮代周辺の動きとしては、管領扇谷上杉方の太田道灌(資長)(どうかん(すけなが))が長禄(ちょうろく)元年(一四五六)、江戸城・川越城とならんで岩付城(岩槻市)を築城し、古河公方の武蔵国侵攻を阻止したとされている。しかし、近年の研究成果によって、岩付城は当時古河公方方に属していた成田氏の手によって築城された城であり、むしろ古河公方の管領上杉氏に対する最前線の城がその後、道灌の子孫である岩付太田氏の手にわたったとする説が出されている。
2-33 鎌倉公方・古河公方系図
いずれにせよ、岩付城が両勢力にとって要所であったことは疑いない。また、慈恩寺(岩槻市)文書には、渋江氏が狼藉者として登場することから、或いは渋江氏が岩付城を支配していた時期もあったのであろう。その後成氏は、康正(こうしょう)二年(「享徳五年」・一四五六)二月十日、鷲宮神社(北葛飾郡鷲宮町)に凶徒(幕府・管領上杉氏)退治の願文(鷲宮神社文書)を捧げているが、これは鷲宮神社が太田荘の総鎮守であることを意識したもので、太田荘と鎌倉公方との強い結び付きがうかがえる。なお、宮代と鷲宮神社との関係では久米原と和戸が戦国時代においては鷲宮神社領であったことがうかがえる(鷲宮神社文書)。
2-34 上杉氏系図 (数字は関東管領の代数)
また、成氏の子である古河公方二代の足利政氏は、永正(えいしょう)九年(一五一二)、子の高基によって古河城を追われて小山(おやま)(栃木県小山市)に移り、翌十年に岩付城で出家した。永正十六年には、久喜の甘棠院(かんとういん)(久喜市)を開いて隠退し、同地で没している。