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岩付太田氏による支配

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河越夜戦の後、後北条氏の支配領域となった宮代周辺は、天文十八年ごろから、後北条氏と同盟関係を結んで、これまでの対立関係から他国衆として独立支配体制の保持を選択した岩付太田氏の三代目にあたる太田資正の支配領域となった。資正は、慈恩寺や忠恩寺(白岡町)のほか、町内の西光院にも文書を発し、西光院の塔頭(たっちゅう)(支院)や寺領の安堵を行っているほか、岩付城の繁栄祈念を命じている。また資正は、岩付城下の支配領域を岩付領として掌握し、着実にその支配体制を確立していった。岩付領の範囲は、岩付城周辺のみならず、岩付太田氏の旧領地とされる比企郡・入間郡の一部や足立郡のほぼ全域を含む広範な領域であった。

2-37 太田資正判物写 (西光院所蔵)

 しかし、永禄(えいろく)三年(一五六〇)になると、後北条氏によって関東を追われて越後国に落ちのびていた管領上杉憲政の意向を受けた長尾景虎(上杉謙信)が関東に進攻してくると、資正はすぐさまこれに呼応して再び反後北条氏の立場を明確にした。そのため、この地域は再び後北条氏と資正の対立による戦禍に巻き込まれることになった。
 永禄七年、資正は後北条氏と通じた長子の氏資とその家臣の謀略によって次男梶原政景とともに岩付城を追われ、何度か岩付城の奪回を試みるものの最終的には常陸国の戦国大名佐竹氏の客将としてその生涯を終えた。一方、父資正の岩付領支配を継承した氏資も、永禄十年、上総(かずさ)国三船台(千葉県富津市)における里見氏との合戦で討死し、事実上、岩付太田氏による支配は終焉を迎えた。