2-37 太田資正判物写 (西光院所蔵)
しかし、永禄(えいろく)三年(一五六〇)になると、後北条氏によって関東を追われて越後国に落ちのびていた管領上杉憲政の意向を受けた長尾景虎(上杉謙信)が関東に進攻してくると、資正はすぐさまこれに呼応して再び反後北条氏の立場を明確にした。そのため、この地域は再び後北条氏と資正の対立による戦禍に巻き込まれることになった。
永禄七年、資正は後北条氏と通じた長子の氏資とその家臣の謀略によって次男梶原政景とともに岩付城を追われ、何度か岩付城の奪回を試みるものの最終的には常陸国の戦国大名佐竹氏の客将としてその生涯を終えた。一方、父資正の岩付領支配を継承した氏資も、永禄十年、上総(かずさ)国三船台(千葉県富津市)における里見氏との合戦で討死し、事実上、岩付太田氏による支配は終焉を迎えた。