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目次
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第二編 中世
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第三章 鈴木雅楽助(うたのすけ)と百間
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第一節 鎌倉府体制の崩壊と戦国時代の始まり
後北条氏による岩付領支配
189 ~ 190 / 660ページ
太田氏資の死去後、主を失った岩付領は小田原を本拠地とする後北条氏の直接支配地となり、まず小田原から岩付城代として派遣されて来た北条康成(後の氏繁)がその実質的な支配の任にあたった。現在、西光院には永禄十三年二月二十日付で、康成から西光院に充てて岩付当(在)番衆の狼藉を取り締まる旨の証文が出されており、その支配の一端を見ることができる。
2-38 北条康成書状 (西光院所蔵)
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2-39 岩付太田氏系図
また、第二節で詳述するように百間には鈴木雅楽助という土豪がおり、元亀(げんき)三年(一五七二)正月、後北条氏当主の北条氏政から「着到書出状」と言われる文書によって領地を安堵され、軍役を命じられるなど、岩付城の支配領域である岩付領内の代官を務め、百間周辺を支配していた。