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百間の起こりとその範囲

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戦国時代、宮代町百間地域は鈴木雅楽助(うたのすけ)と呼ばれる人物によって支配されていた。ここでは、雅楽助の系譜をみる前に中世の百間についてみていくことにする。
 百間の地名については、行基(ぎょうき)菩薩が当地を舟で訪れた際に、上陸した地に地蔵尊を安置し、ここから神外(じんが)の地(聖域)までの距離をはかったところ一〇〇間あったことによる(高野村誌稿)といったような伝承が残っているが詳細は明らかではない。しかし、行基が安置したとする伝えのある地蔵尊が「沓掛(くつかけ)地蔵」として西光院に存在していたこと(現在の地蔵尊は後の建立)や、西光院の寺域が門前の通りを挟んで、その間を東西の神会(外)(じんが)という字名で区切られていることから、百間の地名が西光院の創建にかかわっていることがうかがえる。さらに、行基が船でこの地を訪れたとする記述が着目される。現在も百間地域には川島・平島・松の木島といった小名(こな)が残っており、周囲が川に囲まれていたことが容易に想像できる。また、百間の字逆井(あざさかさい)も、その語源は「百間記」によれば、若狭国からの船着場があり、その船頭が井戸を掘ったことに由来すると云う。古代には「万葉集」に「埼玉の津」がうたわれていることもあり、百間の地が古来から利根川水上交通の要所であったことがうかがえる。
 百間の地名が資料上で確認できるのは、宝生院(ほうしょういん)に残る応永(おうえい)二十一年(一四一四)銘の鰐口(わにぐち)に「武州太田庄南方百間姫宮鰐口一口」と記されているのが初見である。なお『新編武蔵風土記』によれば、この鰐口は当時、姫宮神社に掛けられていたものとされる。同書によれば、江戸時代には、この百間を中心に百間領が形成され、二七か村が属していたことが知られる。以下、その村名を掲げると新方袋(にいかたぶくろ)・梅田・内牧・小溝・徳力(とくりき)・百間・中・東・中島・百間四ヶ村請新田・藤助新田・九人組新田・和戸・蓮谷・太田新井・彦兵衛新田・上野田・下野田・久米原・爪田ケ谷・須賀・国納・高岩・太田袋・吉羽・西・吉羽西村新田となり、東は古利根川、西を旧日川(にっかわ)、南を古隅田川によって囲まれたかなり広い領域であったことが分かる。しかし、中世の百間は資料上では「郷」として見えており(天正(てんしょう)十六年正月五日付 北条氏房朱印状写「武州文書」ほか)、「領」としては岩付領に属していた。そして、「百間郷」の範囲としては、先の百間領内のうち、百間・百間中村・百間東村・百間中島村・百間金谷原組・百間西原組・蓮谷村の範囲(現在の大字百間・中島・宮東・道仏・姫宮・東・中・西原・金原・山崎・逆井)であったと考えられる。このほか、西原地区では発掘調査により戦国期の館跡が確認されていることや山崎地区に「宿」の小名も残ることから、東・中・西原・宿地区にかけてのあたりが百間郷の中心部であったと思われる。

2-40 宝生院鰐口