このうち、初代重次は注書に「管領上杉氏幕下」とあることから、この時代管領職を歴任していた山内上杉氏の家臣であったと考えられる。しかし、西光院に残る鈴木重門の墓誌には、鈴木氏は旧姓を穂積氏といい、明応(めいおう)年中(一四九二~一五〇〇)に左馬之助重次(しげつぐ)が古河公方(こがくぼう)足利成氏に仕えたとする記事も見られる。この時期は、前述したように、享徳(きょうとく)の乱以降、古河(鎌倉)公方と関東管領上杉氏とが互いに激しい対立抗争を繰り広げていたこともあって、これだけで両者のどちらに属していたかを断定することはできない。しかし、鈴木氏が支配していた百間郷がその支配領域に組み込まれる岩付城自体が、前述したように近年の研究成果によって、管領扇谷上杉氏の家臣太田道灌(どうかん)によって築城されたのではなく、実は当時古河公方に属していた成田氏が築城したもので、古河公方の管領上杉氏に対する最前線の城だったのが、その後、道灌の一族である岩付太田氏の手にわたったとされる。よって、以上の点から、この二つの鈴木氏にかかわる由緒も、時間経過によって古河公方家臣から岩付太田氏家臣(=管領上杉氏家臣)ということを物語っていると思われる。なお、この時間的経過は、初代重次が文亀(ぶんき)二年(一五〇二)の死去で、主人足利成氏が、それ以前の明応六年(一四九七)に死去していることからも確認される。
2-41 北条家印判状写
((独)国立公文書館所蔵 埼玉県立文書館提供)
二代雅楽助重久(しげひさ)も、「管領上杉氏幕下」と続くが、三代雅楽助業俊(のりとし)は注書に「関東元帥北条左京大夫氏政旗下」とあり、明らかにこの代までには、岩付城主が太田氏から北条氏に移行していたことがうかがえる。そう考えると業俊が活躍した時期は、最後の岩付城主太田氏資が死去する永禄(えいろく)十年(一五六七)から子の重門の活躍が後述する「鈴木日向守軍功(ひゅうがのかみぐんこう)」に見え出す、天正(てんしょう)九年(一五八一)までの期間と考えられる。この時期の文書としては、元亀(げんき)三年(一五七二)正月九日に出された鈴木雅楽助宛の「改定着到状」が見られる。この文書によって業俊は、北条氏から八貫二五〇文の知行地を百間地内に充てがわれているほか、軍役として馬上一騎と槍持一人を申し付けられている。なお、業俊の名前はその先祖が代々用いて来た「重」の字を継承していない。この名前は、岩付太田氏の重臣である宮城四郎兵衛尉泰業(やすのり)と何らかの関係(寄親・寄子関係=血縁関係のない武士同士で擬制的な親子関係を結ぶこと)にあったものと推察される。
四代日向守重門の軍功については、鈴木氏由緒書の中で「鈴木日向守軍功」としてまとめられている。期間は、天正九年から岩付城が豊臣秀吉によって滅ぼされる天正十八年までで、各地で転戦する重門の功績が如実に述べられている。しかし、重門の官途名日向守に関する資料は現存していないので、恐らく父業俊と共に活動していたのであろう。
なお、鴻巣市本町の鈴木家に残る「鈴木家系図」によれば、鈴木氏は三保谷郷(比企郡川島町三保谷)出身で百間の鈴木雅楽助重久はこの系統から分かれた一族としている。(金沢文磨「鈴木家系図及古文書附三保谷四郎の事」『埼玉史談』第八巻五号)また、三保谷鈴木氏も元は穂積姓であり、熊野権現との関わりがあったことが記されている。
2-42 鈴木氏系図