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後北条氏の岩付支配

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永禄十年の太田氏資の死去後の岩付領は、先述したようにしばらくは、後北条氏三代氏康の弟で相模玉縄(たまなわ)城主の北条氏繁が岩付城代として入り、小田原本城主による直轄支配下に組み込まれた。
 元亀(げんき)二年(一五七一)十月三日、その小田原本城主である氏康が死去した。これに際して岩付領の軍役改定が実施され、氏康の跡を継いだ氏政からその改定内容に関して雅楽助に対して出されたのが本文書〔元亀三年(一五七二)〕壬申正月九日北条家印判状写である。文書の日付に押されている朱印は上部に虎がうずくまった方形で「禄寿応穏」の文字が刻まれている「虎印判」と呼ばれるもので、後北条氏の当主しか使用できなかった印である。文書の様式は、一枚の竪紙を半分に横折りして、その上半分に文字を書いた「折紙(おりがみ)」という様式である。文書は前半には家臣(ここでは雅楽助)の知行地と貫高が記され、後半にはそれに対する軍役が記されており、「着到書出状(ちゃくとうかきだしじょう)」と呼ばれている。なお、この文書と同じ日付・様式・内容の文書が道租土(さいど)文書と豊島宮城文書にそれぞれ存在する。

2-43 北条氏政印判状写
((独)国立公文書館所蔵 埼玉県立文書館提供)