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雅楽助の百間郷支配

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雅楽助の知行地は「百間之内 八貫弐百五十文」と書かれていて、具体的に百間郷のどこを支配していたかは不明であるが、恐らくは鈴木家が所在する現在の宮代町字東を中心とした周辺の地域であろう。この文言からみても、百間郷が狭い範囲ではなく、広範囲に及んでいたことがうかがえる。また豊島氏や道租土氏宛の同日付文書には、本貫地(本来の所領)のほかに後北条氏から付加された恩賞地が知行地として加えられて記されているが、雅楽助宛の文書は「百間」だけなので、「百間」が雅楽助の本貫地(本来の所領)であることに疑いはない。この雅楽助の本貫地に対する軍役は、皮笠をかぶり、二間半の鑓を持った足軽侍一人(一本)と馬上で甲胄を身に付け、旗指物を背中に負った武将一人(一騎)の二人である。恐らく甲胄に身を固めた一騎侍が雅楽助であろう。雅楽助は、合戦への参陣要請が後北条氏からあったとき、以上の支度を整えて、家臣一人と共に戦場へと馳せ参じたのである。
 天正(てんしょう)八年(一五八〇)八月十九日、北条氏政は、家督を子の氏直に譲り、自らは「御隠居様」として、政務にあたった。岩付領においては、この政権交代の翌年、天正九年六月二十六日付の文書で、氏政による岩付太田氏(資正・氏資)(すけまさ・うじすけ)の旧領支配の実体調査が実施されるなど、氏政の直接の手によって岩付領の本格的な支配体制が整備されつつあった(内山文書ほか)。その背景には、氏政の三男で岩付城に太田氏資の遺児小少将(こしょうしょう)の婿養子として入る国増丸(太田源五郎)の岩付城入部が目前に迫っていた関係など、氏政をもってして直接支配を成さなければならない岩付領支配の重要性があったものと考えられる。
 この雅楽助宛文書(天正九年)辛巳七月八日 北条氏政印判状写は、その翌月にその氏政から出されたもので、前回氏政自身が出した元亀の着到状の軍役部分をより詳細に命じた内容となっている。具体的には槍持ち足軽に対しては、金銀の装飾を槍と皮笠に施し、馬上一騎(雅楽助)に対しては甲に付ける立物(前立)に同じく金銀の装飾を施したうえ、背中に付ける旗指物の大きさまでも規定している。これらの装備については、小田原本城の氏直(大途)からの火急の命令であった。代替わりに伴う、軍装統一といった意図もあったのだろう。

2-44 北条氏房判物 (西光院所蔵)

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2-45 北条氏政印判状写
((独)国立公文書館所蔵 埼玉県立文書館提供)

 文書の様式は一枚の紙全部を使用する「竪紙(たてがみ)」という様式で、印文は未詳である。なお、近年、この印章が岩付領内だけで使用されていることから、その使用者を氏政ではなく、先に述べた国増丸(太田源五郎)のものとする説も出されている。