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石倉小奉行雅楽助

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北条氏房は、天正十五年六月十四日付で、雅楽助に対して、一手組二〇人の出役を命じて、石倉小奉行の職を申し付けた。石倉は、現在の前橋市石倉町にあった石倉城のことと考えられ、ここはかつて利根川を挟んで西上州も領有する武田氏と東上州を領有する上杉謙信が対峙した境目の地であり、厩橋(うまやばし)城の押さえとしての武田方の持ち城だった。石倉城は天正十年の武田氏滅亡後は一時関東に東進した織田信長家臣滝川一益(たきがわかずます)の支配するところとなったが、同年の神流川(かんながわ)合戦後は、この戦いで滝川軍に勝利した後北条氏の持ち城になっていたと思われる。なお、一手組とは、部隊の単位で雅楽助が勤めた小奉行は、その上の「大奉行」の指揮下で行動していたことが知られる。氏政の支配時である天正五年七月十三日には、岩付諸奉行が定められ、「小旗奉行」以下一〇奉行が命じられている(豊島宮城文書)。彼ら奉行の下には二〇~六〇〇人に及ぶ足軽衆が所属していたことが知られることから、同様に石倉大奉行の下に所属する形で雅楽助が率いる小奉行も行動していたものと思われる。

2-47 北条氏房印判状写
((独)国立公文書館所蔵 埼玉県立文書館提供)

 石倉小奉行鈴木雅楽助が率いた一手組の武将は表のように一三人であり、中には彼らのほかに武士や人足(半役)を同行させるよう命じられた者もおり、総人数は二〇人で一手組が構成されていた。この二〇人を雅楽助が小奉行として率いて石倉城への参陣を命じられたのである。なお「半」は半役といい、兵隊ではなく戦闘に参加しない物資輸送などを担当した農民等の人足を指した。このように、後北条氏からの出陣要請に際しては、雅楽助ら軍役のあるもの以外の農民達も戦場へ人足として駆りだされることがしばしばあったのである。

2-48 一手組の構成

 また、鈴木家に残る鈴木氏由緒書には、氏房の家老である伊達房実(ふさざね)を筆頭とする家臣団総勢二九人が記されており、この内、恒岡三郎左衛門を始め、雅楽助が率いた一手組の武将一三人も「物頭」として名を連ねている。雅楽助は「物頭・組持」と記されており、一手組の組頭を任されていたことがわかる。