翌天正十八年には、岩付城主氏房を含む後北条領国下の各支城主が小田原城に参集し、領国内はにわかに秀吉軍を迎え撃つ臨戦体制が整えられると共に緊張感が高まった。
岩付領内でも、再び兵糧米納入命令が発せられ、同年四月八日付で百間郷の雅楽助にも達した。文書を発したのは、城主氏房に代わって岩付城を守る伊達房実(だてふさざね)である。房実は、この前年に岩槻の慈恩寺に南蛮鉄灯籠を寄進するなど、氏房の重臣として岩付領支配を補佐する立場にあった。房実は、このたびの兵糧米納入が小田原本城の氏直によるものであることを伝えており、この兵糧米納入が岩付領に限らず、後北条氏の支城領すべてに命じられたものであることがうかがえる。なお、今回の兵糧米納入命令には、前回天正十六年の命令とは異なり兵糧米を返却する旨が明記されていない点からも明らかなように、城内に岩付領内の領民たちをも移動させての籠城による総力戦であったことがうかがえる。
2-53 伊達房実判物写
((独)国立公文書館所蔵 埼玉県立文書館提供)
2-54 慈恩寺南蛮灯籠
このような籠城体制で決戦に臨んだ後北条氏であったが、各支城は次々に豊臣軍によって撃破され落城し、五月下旬になっても残る支城は岩付・鉢形・八王子・忍(おし)・津久井の五城だけとなった。このうち、岩付城は後北条氏の城の中でもとくに堅固な城だったため、真っ先に攻撃対象になったといい、その攻撃を担当した秀吉軍は、木村一・浅野長吉・山崎堅家・平岩親吉の面々で総勢二万余の大群であったという(「北徴遺文」六)。
2-55 豊臣秀吉の関東攻略の経路 (『図録埼玉県史』より一部改変)
岩付城攻撃の様子は落城前日の五月二十一日付で、小田原に籠城する氏房の元へ、氏房の奉行人松浦康成から送られた文書(「越前史料所収山本文書」)に詳しく述べられている。それによれば、五月二十日に、秀吉軍によって惣構(大構)が破られ、大手口では鉄砲による銃撃戦が繰り広げられた。また、城内では萱葺き家屋へ火をかけられることを警戒して、この件の警備を福嶋氏や金子氏といった氏房家臣に命じたり、本丸の萱葺き屋根については急きょ板屋根に普請するなど、迫り来る敵軍に対して緊迫した城中の様子を伝えている。なお、この書状末文には「委細鈴木・増田両人口上ニ申付候」とあって、雅楽助と思われる鈴木氏が増田氏とともに使者として小田原へ派遣されていることがわかる。雅楽助は、氏房に従って、小田原本城へ移動したのではなく、留守部隊として、伊達房実らとともにそれまでは城内において、応戦していたのであろう。なお、鈴木家に残る先の「由緒書」には天正十八年に「岩付花摘(積)台」(春日部市花積)において合戦があったことが記されている。この合戦の詳細は不明だが、おそらく岩付本城での合戦以外にも、このような小合戦が城の周辺で繰り広げられていたものと思われ、留守部隊が奮戦していた様子がうかがえる。
2-56 松浦康成書状写 (国文学研究資料館史料館所蔵)
一方、百間郷内の百姓達はどうしていたのであろうか。五月二十七日付で岩付落城時の様子を氏直に伝えた長岡忠興等による書状によれば、役に立つ者(兵力としての男子)は皆討ち死にし、城内には町人・百姓・女よりほかは居なかった旨を伝えている。このように、城内には岩付領内の各地から避難していた百姓たちが多数立て籠もっていたとみられる。彼らの運命は、城を守る領主たちの手にゆだねられていたともいえ、豊臣軍との決戦はまさに後北条領国における総力戦であったことがわかる。
岩付城は、同年五月二十二日には落城し、城内に避難していた者のうち、女子供たちは、垣の一部内へ秀吉軍によって預け置かれるなど敗戦処理が徹底される一方で、重臣クラス以外の家臣たちは帰農を命じられている。百間郷の百姓達も、ほかの地域でもそうであったように、落城後は再び百間に戻り、戦前の生活に戻ったものと思われる。領主雅楽助も、また帰農して近世以降は再び百間村の統治に当たったのであろう。