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熊野商人鈴木氏と雅楽助

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これまで鈴木雅楽助の戦国武将としての側面をみて来たが、ここでは、雅楽助の別の一面を垣間みることにしたい。年未詳八月六日付小山田信茂(おやまだのぶしげ)書状写(「御感状之写並書翰」)には、甲斐武田氏の重臣である小山田信茂が天原左右衛門尉(あまはらさえもんのじょう)に対して関東へ商人を派遣するに際して、岩付の柏崎氏か鈴木雅楽助かその他しかるべき者の元へ天原氏が添状をして派遣するよう命じたものである。年未詳の文書であるが、差出人である信茂の花押が永禄八年(一五六五)以降に用いられたものであること、信茂が天正十年(一五八二)には没していることから、永禄八年~天正十年の間に出された文書であり、北条・武田間の同盟関係を考えれば、その時期は上杉方との越相同盟が結ばれていた永禄十二年~元亀三年(一五七二)を除く、前述の期間であると推定される。柏崎氏については、武蔵七党系図の野与党出身に埼玉郡柏崎村出身(岩槻市)とあり、また天正十八年の北条氏印判状写(勝田文書)の中に、連雀商人(行商人)である勝田氏と共に柏崎四郎左衛門の名が見えることから、その存在と商人としての性格が知られる。宛所の天原氏については不明であるが小山田氏の家臣筋であろう。

2-57 小山田信茂書状写 
((独)国立公文書館所蔵)

 ここで、注目されるのは武田氏から派遣される予定の商人が、なぜ岩付の柏崎氏や雅楽助を頼って派遣されたのかである。文面からその真意を汲み取ることは難しいが、仮に岩付領内に武田―北条の正規ルートで商人が派遣されることなのであれば、雅楽助らではなく、もっと重臣である後北条氏か氏房の奉行人クラスに対して出されるはずである。それが、この文書ではあえて雅楽助を指名しているということは、ほかに雅楽助でなくてはならない理由があったはずである。関東へ派遣される人物が商人であるという点から、雅楽助が関東における商業の流通ルートに関与していた可能性も考えられる。いまその点に関する確かな資料は見いだせないが、その関連性を想起させるものとして、鈴木氏の出自を記した西光院に残る鈴木日向守重門の墓誌や前述した鴻巣市鈴木家に残る「鈴木家系図」がある。重門の墓誌は、近世になって刻まれたものではあるが、その中に、重門の活躍とともに鈴木氏が元は穂積姓だったことが記されている。紀伊国熊野(和歌山県熊野町)出身の鈴木氏や宇井・榎本といった諸氏が元は穂積姓を名乗っていた経緯を伝えている。彼らは、熊野信仰を媒介とする熊野の商人や御師(おし)として、全国に広いネットワークを持っていたとされる。この時期、その代表的な熊野商人としては、品川に同じ鈴木姓を持つ鈴木道胤(どういん)がおり、古河公方や後北条氏と結びつきながら熊野と江戸湾、江戸湾から利根川を使った関東各所へと経済流通ルートを確保していたことが知られている。百間郷が利根川に面しており、古代から利根川舟運の港湾的基地として機能していたと考えるならば、雅楽助が熊野商人と関係があったとする説を考慮すべき下地も十分にあるといえるだろう。

2-58 中世江戸湾関係要図


2-59 北条家印判状写 ((独)国立公文書館所蔵)