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修験

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中世における修験道(山伏)には、京都聖護院門跡を中心とする本山派と呼ばれる修験者一派と、同じく京都醍醐三宝院を中心とする当山派と呼ばれる修験者一派の二大勢力があり、このうち、宮代周辺では、幸手領小淵(春日部市)に本山派の大先達を勤める不動院が存在した関係から、この配下に属する修験者が多くおり、様々な活動を展開していた。
 町内の本山派修験としては、その開山期は明らかでないものの不動院末として和戸に本覚院(ほんがくいん)や文殊院(もんじゅいん)が存在した。なお不動院は、幸手一色(いっしき)氏と関係を持つとともに、一色氏の一族から輩出されていた古河公方(くぼう)の護持僧である月輪院の後ろ盾によって、武州北方や下総(しもうさ)・常陸などの年行事職に就いており(「不動院由緒一件」)、武州南方・相模・伊豆の年行事職である後北条氏と関係の深い小田原の玉瀧坊(ぎょくろうぼう)とともに関東の修験者を統括する立場にあった。
 では、彼ら修験者の日常の活動はどのようなものだったのだろう。ここでは、小田原玉瀧坊に対して永禄(えいろく)十三年(一五八五)に後北条氏から出された「修験役」に関する文書(年行事古書之写)があるので、その内容を紹介してみたい。
 玉瀧坊が後北条氏から定められた修験役は、2-61の通りである。

2-61 修験役一覧

 このことから修験者の役割は、伊勢神宮・熊野三山や各種巡礼地への参詣者引率行為、家や土地の汚れを祓(はら)う行為や葬送儀礼・神仏勧請といった加持祈祷行為、守札等の配札行為、という大きく三つの行為に大別することができる。おそらく、不動院配下の本覚院や文珠院でも、同様の行為が行われていたのであろう。いずれの行為も人々の日常生活に密接した行為であり、修験者の存在は中世の村にとって不可欠な存在であったことがうかがえる。
 また、彼らはその国境や領域を自由に越えられる行動範囲の広さから、戦国時代には、密使や伝令役、またスパイとして戦国大名の支配下に置かれた。「陣僧」や「使僧」という形で彼らの名前がしばしば当時の文書に登場するのも、その行動範囲の広さに由来するものでもある。
 なお、第二章で紹介した町内久米原・須賀の市名が載る市場之祭文は、かかる場所に市を開設する際にうたわれた祝詞(のりと)であり、その実行者は各地に所在する修験者であったといわれており、またそこに掲載された市名は戦国期の岩付太田氏の支配領域と合致するともいわれている。このように、戦国大名は、一方で彼らを掌握し、彼らの活動を承認するとともに、彼らを通して領民支配を展開していったことがうかがえる。