宮代町域は中世の太田荘に含まれており、その総鎮守である鷲宮神社(鷲宮町)の信仰が及んでいたであろうことは容易に想像できる。特に、町内の和戸・久米原は、天正(てんしょう)十八年(一五九〇)六月に後北条氏によって出された鷲宮神領地書上(鷲宮神社文書)には、「岩付領」として注記があるものの、神領として書き上げられており、鷲宮神領が町内に存在したことを物語っている。現在、和戸には鷲宮神社は存在しないが、久米原には東・西久米原にそれぞれ一か所ずつ鷲宮神社が存在しており、神領とのかかわりを現在に伝えている。