真言宗は、興教大師覚鑁(かくばん)によって古義と新義に区別されるが、高野山の古義の流れを学んだ者を「古義」、根来山の諭義を学んだ者を「新義」といい、新義の智山派の総本山は智積院、新義の豊山派の本山は長谷寺(小池坊)であった。平安時代は貴族に信仰されて栄えたが中世になると武士や農民から信仰されるようになった。高野山信仰・大師信仰を広く広めていったのが高野聖(こうやひじり)であった。高野聖は、覚海から密教を学び、念仏三昧を送った明遍(みょうへん)に始まるといわれている。室町時代になると発展を遂げ近世初頭までに一八〇か寺が創立されたという。特に武蔵国都築郡久保の人印融(いんゆう)は、高野山に登って密教の奥義を極め、武蔵国に下り、浦和の玉蔵院をはじめ数多くの寺院を再興した。関東の真言檀林は、以後印融の肖像を掲げて毎年仏事を欠かさないという。このころの檀林数は不明だが、玉蔵院、龍花院(騎西町)、金剛院(岩槻市)、密教院(吉川市)などが檀林所と伝えられている。この時期に創立された近隣の主な寺院は、応永(おうえい)二十一年(一四一四)菖蒲の吉祥院、寛正(かんしょう)三年(一四六二)末田の金剛院、天文(てんぶん)三年(一五三四)蒲生の清蔵院(越谷市)などがある。
西光院は、平安時代の草創の密場と伝えられているが、戦国時代に入ると岩付城主太田資正(すけまさ)の帰依を受け、西光院の塔頭(たっちゅう)六か所の内三か所が退転したので、これを改めるとともに寺領とし、岩付城の祈願所となった。永禄(えいろく)十三年(一五七〇)二月二十日玉縄(たまなわ)城主北条康成は、岩付城の当番衆が西光院および同寺家中に対して狼藉をすることを厳禁する旨の文書を発している。また、天正十四年三月十一日岩付城主北条氏房は、前々のごとく、寺領を安堵している。以上のように西光院は岩付太田氏、北条氏の帰依を受け繁栄していた。この地の土豪(どごう)鈴木左馬助重次は、関東管領上杉氏に仕え、後に岩付太田氏に仕え、岩付太田氏から北条氏に属したが、墓所は西光院にあり、所領も百間の内にあった。
なお、中世の西光院は、栃木県足利市小俣にある真言宗豊山派の寺院で、中世においては関東真言宗のうち慈猛流(じみょうりゅう)真言密教の本山であった鶏足寺(けいそくじ)の法流を継ぐ系統にあったことが知られている。また、鶏足寺の末寺には、宮代近辺の有力寺院として幸手市平須賀にある宝聖寺がある。宝聖寺は、大麟山光明院とも号した。『新編武蔵風土記』の葛飾郡平須賀の項には、応安二年(一三六九)に覚宥(かくゆう)なる人物が木立村(幸手市木立)の光明院の宥俊(ゆうしゅん)から受法(師から弟子へ法門が授与されること)して宝聖寺の住職となったものの、その後水害のために光明院の堂舎が流出したので宥俊が宝聖寺に移住し、光明院とも号するようになったと伝える。
この覚宥と宥俊の師弟関係については、関東真言宗の法流(師弟関係)を詳細に記録した「願行流血脈」(「小松寺文書」)に次のように記されている。
この「願行流血脈」によれば、西光院は宝聖寺覚宥の弟子で、吉見町安楽寺の宥栄の弟子であったことがわかる。
臨済宗は、栄西の弟子栄朝が天台宗を学んだ後に栄西に学び世良田の長楽寺を開山して禅宗を広めた。臨済宗を広めた聖一国師弁円の弟子恵雲(仏智禅師)は、榛沢郡の丹治氏の出自で正嘉(しょうか)二年(一二五八)入宋し、永仁(えいにん)三年(一二九五)京都の東福寺の主となった。恵広(仏乗禅師)は、比企郡の出で、仏光国師のもとで得度し、仏国禅師に師事し、その後円覚寺に帰り第一座となった。元応(げんおう)二年(一三二〇)元に学び、その後鎌倉の浄妙寺の住職となった。不聞契聞は、川越の人で乾元(けんげん)元年(一三〇二)に生まれ、円覚寺の東明に師事し、嘉暦(かりゃく)元年(一三二六)元に渡り、帰国後円覚寺の主になった。臨済宗は、武家の帰依が多く、教勢は著しく伸張し、関東管領などによる寺院の創建が相次いで起こった。岩槻市の法花寺は、天台宗であったものが、鎌倉時代に円覚寺派に改められている。延文(えんぶん)五年(一三六〇)足利基氏は兄竹若の菩提の為仏慧禅師を請じ清河寺を創建した。貞治(ていじ)三年(一三六四)秀田等栄は古先印元をもって川口市芝の長徳寺を、また、永和(えいわ)元年(一三七五)円覚寺の石室善玖は、岩槻市に平林寺を開山した。明応(めいおう)年中太田資家は叔父祝悦禅師を請じて養竹院(川島町)を創立、応永年間井上三河守は香庵和尚を請じて金仙寺(秩父市)を開山した。古河公方政氏は、永正(えいしょう)十三年(一五一六)退隠した館に、親族の貞厳和尚を招き甘棠院を開山した。
2-63 願行流血脈 (小松寺所蔵)
2-64 願行流血脈より
曹洞宗は、「臨済将軍、曹洞士民」といわれるように臨済宗と異なり地方の武将に信仰され、鎌倉時代には一五か寺にすぎなかったが、室町時代から近世初頭までの間に天台宗、真言宗、臨済宗の改宗も含めて二〇〇余か寺に発展している。この発展は、上杉氏、太田氏、成田氏、大導寺氏などの帰依によるものである。発展の基盤となったのが越生の龍穏寺で、永享(えいきょう)年中(一四二九~一四四一)足利義教が足利氏の菩提のために無極恵徹(児玉党の子孫)に開山させ、その後、高僧が住職を歴任し教線は拡張した。李雲永嶽は、武蔵の人で、能登総持寺の住職であったが、明応(めいおう)八年(一四九九)鳩ヶ谷市里の法性寺を開山し、文亀(ぶんき)二年(一五〇二)白岡町の興善寺を天台宗より改宗、さらに幸手市の宝持寺の開山をしている。宮代町には、興善寺の末寺である長福寺、金剛寺、宝光寺がある。
修験道は、この時期には天台宗に属する本山派修験が発展し、真言宗に属する醍醐三宝院を本寺とする当山派は振るわなかった。文明(ぶんめい)十八年(一四八六)聖護院門跡道興准后が関東を遊歴したことが『四国雑記』に記されているが、当地を通過したことが伺い知れる。春日部市小淵の不動院は、天文年中(一五三二~一五五五)秀円が開いたが、関東修験年行事大先達となっている。修験道は、年行事職、先達、旦那役などの階級を設け、区域を限って統轄した。町内には、龍光院、本覚院、文殊院があり、いずれも中世の創建と考えられるが、明治初年にいずれも廃寺となった。
日蓮宗は、池上の本門寺を本寺として教線が拡大したが、埼玉東部地域での布教は板碑を見ると南北朝時代に広まったと考えられる。久米原の妙本寺は大石寺の末寺で、嘉元(かげん)元年(一三〇三)の造立と伝えるが、資料は少ない。
町内における中世寺院の造立年代と開基については以下のとおりである。百間の遍照院は、『新編武蔵風土記』によると開山祐源により天正元年創立と伝え、『武蔵国郡村誌』によると清範法師により、応徳(おうとく)二年(一〇八五)に創立と伝える。百間中(なか)の宝生院は創立者の宥慶が寂(じゃく)したのが明応九年(一五〇〇)六月十日という。百間東の西光院は行基の草創、安部清明開基と伝えられる。また、安元(あんげん)二年(一一七六)に製作された阿弥陀三尊像も残る。百間中島の医王院は天文年中(一五三二~一五五五)開基という。久米原の妙本寺は嘉元元年の造立、嘉元二年創建であるという。久米原の宝光寺は、天文元年創立と伝え、また、開山岩芳が天正十五年六月十七日寂したという。須賀の真蔵院は嘉暦年中(一三二六~一三二九)創立と伝え、境内の薬師堂は仁治年中(一二四〇~一二四三)の創建と伝える。須賀の金剛寺の開山存清は文亀元年に創立させたという。須賀の龍光院は開祖尊長が永禄四年四月二十一日寂したという。