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[石造供養塔の造立]

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 中世の古文書がほとんど伝えられていない宮代町域では、平安時代後期以降に造立された五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)、板碑などに造立年月日や造立者名などが刻まれており貴重な資料である。石造物や金工品は早くから注目されており、現在ではその存在が確認できないものも少なくない。『新編武蔵風土記』や『高野村誌稿』・『埼玉史談』にその内容が記されている。
 『新編武蔵』には、次のようにある。
 百間村の姫宮神社の項には「(略)神体は釣鏡三面にて、厨子の内に赴く。中央は釈迦の像、左右に文珠、普賢の像を鋳出せり。社前に応永(おうえい)中の鰐口を掛、其図上に出す。(略)」とある。百間東村の西光院境内の雷電社の項には「昔比社に掛たる古鰐口を蔵す、」とある。和戸村の宇宮明神社の項には「社地に元享(げんこう)三年の古碑あり。」とある。和戸村の文殊院の項には「境内に応永十年の古碑あり。」とある。
 『高野村誌稿』には、「馬貞丈の高野昔話に、板碑トイフハ昔秩父山ヨリ切リ出シタル青石ニテ作リタル石塔婆(いしとうば)ナリ、コノアタリニテ屡掘リ出サレタルモノヲ見ルニ応永十五年前後ノモノノミ多カリ(略)同郡須賀村真蔵院境内ニアル正平(しょうへい)十年ト彫レルモノナドハイト珍ラシ(略)」とある。
 『埼玉史談』(第五巻第二号)には、「(略)南埼玉郡百間村の西光院に到る。同寺は真言宗智山派に属する郡内屈指の名刹にて、阿弥陀堂に安置する弥陀如来並みに両脇侍の像は平安末期の制作に係り、既に本県史に戴録する所であるが、其の高さは中尊が三尺二寸、両脇侍は共に三尺四寸五分を有し、寄木造りで彩色が施され、実に当時の優美な手法を窺ふに足る。次いで本堂に到り、鎌倉時代の制作になる毘沙門天像並に不動像を拝見(略)。宝生院に到り、寺内に於いて所蔵の鰐口一個を見る。直径九寸四分、銘文に『敬白。武州太田庄南方百間姫宮鰐口一口。旦那大夫五郎。応永廿一年甲午三月日』とあり、そのほか青石塔婆の断片一枚は縦九寸二分、横五寸五分、種子不明なれども梵字六個を有し、『応仁(おうにん)三己丑年□□。法秀禅尼』と刻まれて居た。」とある。