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板碑(いたび)

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頭部を山形にした板状の青石塔婆(あおいしとうば)が数多く造立されたが、中世に始まり、中世で終了している。江戸時代は「板碑」と称されていたが、便宜的なもので、「板石塔婆(いたいしとうば)」と称するのが妥当との意見もあるが、ここでは「板碑」と呼ぶことにする。板碑の形式源流については、五輪塔が板碑となった説、碑伝とする説、笠塔婆説、人型説、宝珠説、角塔婆説などがある。武蔵国を中心に板碑が流行したが、これは秩父青石という好適の石材を利用したことと、武蔵武士団の信仰が結びついたためといわれている。板碑の造立については、地域によって鎌倉期または鎌倉・南北朝期をピークに下降を示す地域、鎌倉・南北朝期と戦国期にピークを迎える地域、室町期にピークを迎える地域、戦国期にピークを迎える地域などがあり、在地土豪(ざいちどごう)の活動時期と合致している。
 板碑は、一石彫成の卒都婆(そとば)で、石材によって板状、柱状などの形状となる。頭部は三角の山形を作り、その下に二段の切り込みを施し、その下に額部を設け、その下に身部、最下部に根部を設けているのが典型的な形式である。材質が花岡岩や凝灰岩製のものは、額部や根部が突出するものもある。中には一石で二基あるいは三基などを連刻した二連板碑、三連板碑などと称されるものもある。自然石を用いたものは内容的には板碑と同様であるが、板碑と呼ぶには頭部の山形形式などを規定していることから自然石は「自然石塔婆」と称されている。杉戸町には、南北朝期と推定される自然石塔婆があるが、宮代町域では見当たらない。
 板碑の身部には、仏菩薩の像または種子、真言あるいは偈頌(げじゅ)、願文(がんもん)や五輪塔、宝塔、宝篋印塔などが刻まれている。梵字は、宗派を越えて用いられているが、最も多く使用されているのが阿弥陀で浄土信仰につながる。念仏門系では「南無阿弥陀仏」の六字名号、日蓮宗では「南無妙法蓮華経」の題目を刻んでいる。

2-69 宮代町最古の板碑 (観音寺所蔵)


2-70 宮代町最大の板碑 (小島氏所蔵)


2-71 板碑一覧

 2-71は町域にある板碑を所在地別、造立時期別にまとめたものである。町内に残る鎌倉期の紀年号を有する板碑は、全部で五基である。町内で最も古い板碑は、観音寺の正安(しょうあん)三年(一三〇一)六月日の紀年号を有する鎌倉期の阿弥陀三尊種子板碑で、上部は欠損しているが、年号の両脇に光明真言(梵字)が二行ずつ刻まれている。西光院の板碑は、□暦四年己巳七月日(干支から一三二九年とした。)の造立年号を刻み、上部は欠損しているが、年号の両側に二行ずつに分けた涅槃経の「(諸行無常 是正)滅法 生滅滅己 寂滅為楽」の偈(げ)が刻まれている。青林寺の板碑は、上部が欠損し、蓮座から下が残っているが二分断している。銘文は、中央に「元徳(げんとく)四年(一三三二)壬申六月」の紀年号を刻み、その右側に「為釈□信」左側に「逆修□□」とあり、生前に造立されたことが分かる。浄林寺の板碑は、上部が欠損し、蓮座から下部が残っている。下部中央に「正中(せいちゅう)二年(一三二五)十二月日」と紀年号を刻み、紀年号の両側に二行ずつに分けられた光明真言(梵字)が刻まれている。東の伊草家の板碑は完形で、二条線の下に阿弥陀一尊種子、蓮座を刻みその下に「文保(ぶんぽう)[ ]」(一三一七~一三一九)の年号が刻まれている。
 町内で特筆される板碑としては、宝生院にある「応永卅五年(一四二八)五月十五日 道円」銘の板碑で、これは双式板碑である。また、西光院の福徳(ふくとく)元年銘阿弥陀三尊種子板碑は、私年号板碑であり、この板碑からこの時期におけるこの付近の領主は古河公方とも考えられている。真蔵院の延文(えんぶん)五年(一三六〇)銘の板碑には「(南無阿)弥陀仏」と刻まれておりこの六文字から「六字名号板碑」と称されている。五社神社の板碑には金泥がほどこされている。
 町内での板碑の分布をみると台地上または自然堤防上に位置しており、当時の人々の生活が営まれていたと推定できる。特に西光院の立地する舌状台地からは、発掘調査により井戸からも板碑が出土している。