近世は、武家政権による天下統一に始まり、その崩壊によって終わりを迎える時代である。武家政権による天下統一は、織田信長に始まり、豊臣秀吉によって形が作られ、徳川家康が確立したといわれており、「織田が搗(つ)き、羽柴がこねし天下餅、座りしままに食うは家康」といわれるのはこのような理由である。そのため、戦国時代末~江戸時代初頭にかけてをその始期とすることが一般的である。当町を含む関東地方では、小田原北条氏が滅亡して徳川家康が江戸城に入城した天正十八年(一五九〇)を始期とすることが多い。
近世という時代区分は、日本特有のものであり、外国語に翻訳することが困難な言葉である。欧米では、古代、中世、近代の三段階の時代区分が一般的であり、近世という時代区分が用いられることはない。日本の古代律令制国家や明治維新後に形成された近代国家が外来文明の強い影響を受けたのに対し、自生的に形成された近世日本社会は、日本の歴史の特徴的なものであり、重要な意義のある時代といえよう。
近世国家の基盤は豊臣秀吉によって実施された検地(けんち)と刀狩(かたながり)によって形成されたと考えられている。秀吉は、天正十年本能寺の変の翌月に山城国(やましろのくに)の指出(さしだし)、つまり土地台帳の基礎を提出させている。これが太閤検地の始まりといわれ、日本ばかりでなく、朝鮮にまで実施している。秀吉以前にも検地は実施されていたが、戦国大名がそれぞれの領地に限って実施したものであり、全国を同一基準で実施したのは、秀吉が初めてであった。検地によって年貢やその他の負担の基準となる石高が定められ、その負担者である農民が決定されるのと同時に、村の領域が決定された。また、検地によって決定された石高(こくだか)は、領地として土地を与えられる大名や旗本の勢力の基準となり、大名たちが負担する軍役の基準となったものであった。検地の結果を書き記した検地帳を見ると当時の村の様子を知ることができる。当町に残る元和(げんな)五年(一六一九)の検地は、江戸幕府の検地の中では早い時期に属するものであり、その様子を知ることのできる数少ない事例の一つである。
一方、刀狩は天正十三年に着手している。秀吉以前には天正四年から六年に越前北庄(えちぜんきたのしょう)に入国した柴田勝家が実施しているが、これは信長が実施した北陸の一向一揆に対する弾圧政策の一環であり、全国的に推進したものとはいえない。秀吉は対抗勢力を征服したり、従属させると刀狩を実施している。また、天正十八、十九年の関東・奥州征伐では検地と平行して刀狩を実施しており、全国統一の過程で検地と刀狩は秀吉の政策の両輪であった。秀吉の刀狩令は天正十六年七月八日付の朱印状(しゅいんじょう)によって一般に公布され、三か条からなるものであった。その内容は、諸国の農民が武器を所持して武力蜂起をすることを禁じ、農民の武器を没収し、農民を年貢負担者として規定し、その身分を固定するものであった。
秀吉によって行われた検地と刀狩は、徳川家康によって継承され、関東地方では天正十八年に小田原北条氏の滅亡とともに、徳川家康が江戸城へ入城することによって始まったといえる。秀吉の死後、権力は徳川家康に集中し、大坂の陣によって豊臣氏が滅亡すると政治の中心は江戸に移り、徳川家を頂点とした江戸時代となった。
検地と刀狩で、百姓身分に固定された農民は、年貢負担者として耕地に結び付けられ、その移動には厳しい制限があった。年貢は村を単位として賦課(ふか)され、連帯責任によって納入が義務付けられていた。連帯責任は村を単位とするものが中心であったが、さらに細分した五人組が組織され、犯罪等の防止や生活規範の遵守(じゅんしゅ)なども連帯責任によってその秩序が維持されていた。
武士と農民、職人、商人は身分的に分離されており、その身分によっては居住場所も制限されていた。農民は村に、武士は城下町に、職人や商人は城下町をはじめとする町に居住していた。また、士農工商のほかに穢多(えた)や非人(ひにん)と呼ばれる身分を設定し、士農工商の中に位置付けられない職業に従事していた者を差別していた。身分を固定することによって身分秩序を維持し、武士の支配に対する農民の不満を穢多や非人に向けることによって解消していたと考えられる。
当町に領地を与えられた領主には、御三卿(ごさんきょう)の一橋家をはじめ、大名では四藩、八家が、旗本では一五家を確認することができる。これらの領主たちは、江戸幕府の中枢に位置した者たちや徳川家の直属の家臣であった旗本諸氏であったことからも、当町を含む地域は、徳川家の経済的基盤を支えていた地域であることが分かる。
当町は、古利根川流域に位置するため、低湿地の多くは古利根川の氾濫源(はんらんげん)であった。近世初頭に行われた利根川の改修は、当町へも大きな影響を与え、その景観は大きく変化した。新田開発によって笠原沼は形成され、更なる新田開発によってその形を大きく変化させている。見沼代用水(みぬまだいようすい)は当町にも大きな影響を与え、笠原用水の開削を始め、用排水の整備が盛んに行われた。
当町には、多くの河川が流れ機能しているため、道には橋が架けられ、その普請についての文書が数多く残されている。また、河川も重要な交通路の一つで、舟による荷物の運搬が行われていた。当町を通る道で最も大きなものが御成道(おなりみち)であった。この道は将軍が日光東照宮に参拝するための道である。将軍の日光社参時には、沿道の村々でさまざまな負担をしており、大きな出費となっていたことがわかる。また、古利根川の対岸には日光道中の杉戸宿が位置している。杉戸宿に対する負担としての助郷(すけごう)を勤めており、公的な通行には人や馬の提供をしなければならなかった。
近世はキリスト教が禁止され、人々は必ず寺院の檀家となることが義務付けられていた。また、寺院は、本山を頂点とする本末関係によって把握され、仏教が支配に利用されていた。地域の信仰は寺院のほかに神社がその対象となっていた。仏教が支配の一部に位置付けられていたのと比べ、村を単位とする共同体の信仰であった。このほか、近世の人々の信仰は、町内のあちらこちらに建立された石造物によって伝えられ、旅行といえば、伊勢神宮への参詣(さんけい)を主とした信仰の旅であった。
近世中期以降の村の様相は、新田開発が盛んに行われたため、近世前期の様相とは大きく異なっていた。遊水地の機能を果たしていた低湿地は水田にその姿を変えたため、村々を洪水が度々襲っている。また、天明三年(一七八三)の浅間山の噴火はエルニーニョ現象を誘発したと考えられ、冷害を引き起こしている。これらの災害は、自然の脅威を当時の人々に思い知らせたものであったことだろう。災害の発生は経済基盤の弱い生産規模の小さな農民の生活を直撃し、借金をしなければ生活を継続することができなかった。田畑のほかには財産を持たず、当時は土地の売買が禁止されていたので、田畑を質に入れることにより借金をしていた。しかし、借金の返済は簡単なことではなく、その多くは質流れとなり、農業生産の維持は不可能となるものも少なくなかった。また、農業以外の仕事を持つ者も増加し、農村にも貨幣経済の波が押し寄せていった。農村の変化は、近世のさまざまな制度にも大きな影響を与え、ついには、江戸幕府の屋台骨を揺るがすものとなった。
宮代町を中心とする地域では、現在も俳諧(はいかい)が盛んであり、その源流には近世後期の多少庵(たしょうあん)の存在が大きかったと考えられる。多少庵は俳諧の結社の一つで、由緒ある結社の一つでもあった。また、読み・書き・そろばんといわれる寺子屋も町内に存在していたと推測され、当時の教育や知識層の教養の基本であった「四書五経(ししょごきょう)」などの書籍類も数多く残されている。