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徳川家康の江戸入城

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天正十八年(一五九〇)、後北条氏(ごほうじょうし)の滅亡と共に関東地方に新しい時代の幕が開けた。豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、小田原征伐の論功行賞として徳川家康に三河・駿河・遠江・甲斐・信濃(するが・とおとうみ・かい・しなの)を離れ、伊豆・相模・武蔵・上野・下野・上総・下総(いず・さがみ・むさし・こうづけ・しもつけ・かずさ・しもうさ)への国替えを命じた。そして、家康はその命に応じて、八月一日に居城とする江戸へ入った。
 家康にしてみれば、今まで苦労して基盤を整えてきた領地を離れ、特に先祖伝来の領地である三河を離れることは残念なことであったと思われる。この国替えは秀吉によって用意周到に準備されたものと徳川家では考えていた。後年編纂(へんさん)された『徳川実紀(とくがわじっき)』には関東の在地土豪に反乱を起こさせ、家康を失脚させようと考えたものだとしている。
 国替えを拒否して秀吉と対立することは、自らの存亡を賭けることとなり、しかも岡崎・浜松をはじめとする徳川氏の諸城には既に秀吉の配下の武将が進駐していたので、家康は国替えを受け入れるよりほか選択の余地が無かった。
 一方で、天下統一をもくろむ秀吉にとって、後北条氏を滅ぼし、次の平定対象は東北の諸大名であった。伊達(だて)氏の小田原への参陣によって一応の目的は達しているが、関東を支配し、東北を平定するために家康の国替えは最も重要な事であった。
 家康が関東領国経営の居城を江戸城と決定したのは、秀吉の指示であったと伝えられている。当時の江戸は後北条氏に属した遠山(とおやま)氏の居城で、町屋は茅葺きの家が一〇〇軒ほどで、形ばかりのものであった。しかし、鎌倉や小田原とは違い、江戸には船着き場があったことから後の繁栄につながり、秀吉の指示は適格なものであったことを示している。