家康が江戸入城後、最初に実施したのが家臣団の配置であった。家臣団は、江戸を中心として一〇~二〇里の一夜泊りで行ける範囲に中小の家臣を配置し、一万石以上の家臣は江戸から遠い外縁部の後北条氏の支城に配置した。また、江戸周辺には徳川家の直轄地を設置している。
一万石以上を与えられた家臣は四四人で、伊豆一人、相模二人、武蔵一四人、上野一〇人、下野一人、上総四人、下総一二人であった。これらは主要街道や重要河川をおさえる要衝(ようしょう)に位置し、周辺諸大名に備えるという一面と同時に、新しい領地の治安維持安定を計るという目的を有していた。また、家康は鷹狩りなどを行うと同時に領地を視察し、民情の把握に努めた。当町でも大字須賀に権現台(ごんげんだい)という地名が残されている。権現台は家康がこの地を訪れたときに休息をした所と伝えられている。
当町の村々に配置された家臣は、旗本の服部政光(はっとりまさみつ)が確認できる。『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』によれば、文禄元年(一五九二)二月一日に太田庄のうちの三〇〇〇石を与えるという朱印状を家康から下されたことが分かる。また、「記録御用書本古文書(きろくごようしょぼんこもんじょ)」(国立公文書館内閣文庫蔵)には天正二十年(一五九二)二月一日に太田庄のうちの三〇〇〇石を服部与十郎(政光)に与えられている。服部氏に与えられた領地は百間村と須賀村の一部と考えられ、ほかの村々は幕府の直轄領と思われる。