地方直しとは、蔵米取りを地方知行に切り替える幕府の政策である。幕府の直属の家臣である旗本は、将軍から直接領地を与えられ、その土地と農民を直接支配する地方知行と幕府から米を給付される蔵米取りの二つの知行形態に分けられる。蔵米取りの一〇〇俵は、地方知行の一〇〇石に相当する計算である。幕府の行った地方直しで、実施規模が大きかったものに寛永の地方直しと元禄の地方直しがある。
寛永の地方直しは、寛永十年(一六三三)二月七日を中心とするものである。『徳川実紀(とくがわじっき)』には、一〇〇〇石以下の旗本すべてに二〇〇石が加増され、蔵米取りの者も地方知行に改められたと記されている。
地方直しの前提として、寛永二年には、旗本に知行宛行状が一斉に交付されており、同年三月には旗本江戸屋敷割りの実施、同九年には年貢量と武器の調査が行われている。また、地方直し実施直後の二月十六日には旗本一〇〇石以上の軍役扶持(ぐんやくふち)人数割制が定められ、さらに三日後の十九日には二〇〇~九〇〇石までの旗本への軍役体制が確立している。さらに同十二年六月には武家諸法度(ぶけしょはっと)が公布され、十二月には旗本法度(はたもとはっと)が公布され、幕府常備軍である旗本の軍役体制が強化された。
『新編武蔵風土記』によれば、寛永の地方直しに当たる旗本の知行宛行は当町では行われていないが、寛永元年に旗本朽木家(くちきけ)が百間村(もんまむら)(後の百間本村・百間西原組・百間金谷原組(もんまほんむら・もんまにしばらぐみ・もんまかねやはらぐみ)分)、旗本永井家(ながいけ)が百間村(後の百間東村(もんまひがしむら)分)と須賀村、旗本池田家(いけだけ)が百間村(後の百間中村・百間中島村分)と須賀村、旗本水野家が久米原村(くめはらむら)(後の東粂原村分)と蓮谷村・和戸村に知行宛行が行われている。