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旗本永井家

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『新編武蔵』の百間村の項に「寛永元年当村を永井豊前守(ながいぶぜんのかみ)に賜えり」と記され、須賀村の項にも「寛永元年永井豊前守に賜えり」と記されている。また、東村の項には「昔より永井銈次郎か家の知行」と記載されている。永井豊前守とは、永井直貞(ながいなおさだ)を指し、『寛政重修諸家譜』によれば、元和九年八月六日に豊前守に叙任し、この年武蔵国埼玉郡に一〇〇〇石の采地を与えられたとある。また、「記録御用書本古文書(きろくごようじょぼんこもんじょ)」(国立公文書館内閣文庫蔵)には寛永三年五月二十六日に太田庄東村七〇〇石と須賀村三〇〇石に采地を与えられたとある。このことが『新編武蔵』では、寛永元年と伝えられているものと思われる。
 永井直貞は、寛永三年一月には、父の遺領のうち上総国(かずさのくに)(千葉県)市原・長柄郡の三三〇〇石を継ぎ、四三〇〇石の領主となっている。そして、永井家は、東村と須賀村を代々領有し、明治維新に至っている。
 直貞は、慶長九年に生まれたばかりの家光に仕え、御小姓を勤め、元和九年十二月十四日に御小姓組の番頭となっている。その後、寛永五年に職を辞し、寛文八年(一六六八)二月二十六日に七一歳で没している。万治元年(一六五八)に直孟(なおたけ)が、延宝三年(一六七五)に直澄(なおすみ)が継ぎ、弟直方(なおかた)に五〇〇石を分け与え、三八〇〇石を知行している。正徳(しょうとく)三年(一七一三)には子の直朝が継ぎ、弟直治(なおはる)に四〇〇石を分け与え、三四〇〇石を知行している。その後、享保九年(一七二四)に直賢が、延享三年(一七四六)に直富が、天明六年(一七八六)に直観が遺領を継いでいる。

3-5 旗本永井氏支配領域 (須賀村は他領含む)