ビューア該当ページ

旗本池田家

240 ~ 242 / 660ページ
『新編武蔵』の百間村の項に「寛永元年池田帯刀(たてわき)に賜えり」と記され、須賀村の項には「寛永元年池田備中守(いけだびっちゅうのかみ)に賜われり」と記されている。百間中村の項には「寛永元年池田甲斐守(いけだかいのかみ)が先祖備中守に賜わり」とあり、百間中島村の項には「昔より池田甲斐守の知行」と記載されている。池田帯刀は、池田長賢を指し、父長吉と子長清は備中守を叙任している。『寛政重修諸家譜』によれば、元和九年の上洛の供をし、従五位下に叙し、帯刀を称している。この年新しく五〇〇石を賜わり、武蔵国埼玉郡に一〇〇〇石の采地を与えられたとある。このことが『新編武蔵』では、寛永元年と伝えられているものと思われる。
 池田長賢は、元和三年に一四歳で初めて家光に拝謁し、後に御小姓になっている。同八年六月一日には御小姓の組頭となり、寛永三年に常陸国(ひたちのくに)(茨城県)真壁郡・新治郡(まかべぐん・にいはりぐん)、下野国(しもつけのくに)(栃木県)芳賀郡(はがぐん)に二〇〇〇石を加増されている。同十年六月二十九日に弓矢鉄砲役を命じられ、同十一年には書院番の番頭となっている。同十二年十二月二十四日には下総国(しもうさのくに)(千葉県)香取郡・匝瑳郡(かとりぐん・そうさぐん)において三〇〇〇石を加増され、合計で六〇〇〇石を知行している。慶安三年十一月十九日に大番頭となり、寛文四年二月五日に二条城の守衛中に六一歳で没している。
 その後は長清が継ぎ、天和二年(一六八二)十月二十一日上野国(群馬県)山田郡、勢多郡に一〇〇〇石を加えられ、七〇〇〇石を知行する旗本となっている。その後宝永七年(一七一〇)に長元(ながもと)が、享保七年に長興、宝暦十三年(一七六三)に長舊が、明和七年(一七七〇)に清弥が、寛政八年(一七九六)に長休が遺領を継いでいる。

3-6 旗本池田氏支配領域 (須賀村は他領含む)