『新編武蔵』の久米原村の項に「正保の改に阿部対馬守・水野出雲守(あべつしまのかみ・みずのいずものかみ)知行と載たり」と記載されている。また、和戸村の項には「正保(しょうほう)の頃は水野出雲守(みずのいづものかみ)が知る所」と記されている。水野出雲守とは、水野成貞(みずのなりさだ)を指し、『寛政重修諸家譜』によれば、寛永元年八月に従五位下出雲守に叙任し、十二月に上総国に采地一〇〇〇石を与えられ、同二年九月に同国に二〇〇〇石を加増され、三〇〇〇石を領有していたとあり、国名が間違えて伝えられたと考えられる。
成貞は、元和五年六月に家光に仕え、御小姓を勤めていた。その後、職を辞しているが、月日は定かでなく、慶安三年十月二十日に没している。遺領は子の成之が継いでいるが、寛文元年三月二十六日に病と偽って出仕を怠り、江戸市中で不法の行いをしたため、翌二十七日に切腹を命じられている。
3-7 旗本水野氏支配領域