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武蔵田園簿

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『武蔵田園簿』は『正保田園簿』とも呼ばれ、正保国絵図の郷帳の案であるとされている。幕府は正保元年(一六四四)に全国に国郡図と諸城図の作成を命じている。このうち武蔵国図の作成は慶安二年から三年にかけて行われていると考えられている。『武蔵田園簿』からは、村名・村高・田高・畑高・領主名および支配高を知ることができる。
 記載のある村は百間村・国納村(こくのうむら)・久米原村・蓮谷村(はすやむら)・須賀村・和戸村の六か村で、村高の合計は四八二二石四斗七升七合である。また、田高合計は一七六五石五斗三升四合四勺、畑高合計は三〇五六石九斗四升二合六勺で、畑が全体の約六三パーセントを占めており、田が中心に見える現在の風景とは、違ったものであったことがうかがえよう。
 領主ごとに支配状況を見ると、幕府領が一三〇五石、旗本領が三〇〇〇石、岩槻藩(岩槻市)領が五一七石四斗七升七合となっていたことが分かる。内訳は幕府領が代官曽根与五左衛門(そねよござえもん)支配で百間村に一〇〇〇石、国納村に三〇五石の合計一三〇五石、旗本領のうち永井豊前守知行が百間村に一〇〇〇石、池田帯刀知行が百間村に一〇〇〇石、水野出雲守知行が蓮谷村に一〇三石、久米原村に三五〇石、和戸村に五四七石の合計一〇〇〇石、岩槻藩領の藩主は阿部対馬守で粂原村に三一一石二斗二升七合、須賀村に二〇六石二斗五升の合計五一七石四斗七升七合がなっていた。また、百間村には村高として把握されていた外に五十石の西光院領があることも記載されている。