『新編武蔵』の国納村の項に「元禄十年高木・森川・戸田の三人に賜わり、今もその子孫高木善之助・森川鎌三郎・戸田靭負等が采邑なり」と記されている。このときの高木家の当主は高木清長(たかぎきよなが)である。
『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』によれば、高木家は高木一吉の四男吉次(よしつぐ)が起こした家で、三〇〇石の領地を与えられ、慶安四年(一六五一)には稟米(りんまい)二〇〇俵を加増されている。子の吉次の時には、寛文十二年(一六七二)十二月十六日に稟米二〇〇俵を加増され、天和(てんな)二年(一六八二)四月二十一日にも二〇〇俵を加増されている。清長は、高木忠右衛門定清の次男で、吉長の子を妻として養子となっている。定清の父為信と吉長の父吉次は兄弟であり、嫡子のいなかった吉長の家を存続するために清長を養子としたものと考えられる。元禄元年七月十二日に遺領を継ぎ、同九年七月十二日書院番となっている。同十年七月二十六日に領地を武蔵国埼玉郡、相模国(神奈川県)高座郡・淘綾郡(こうざぐん・とうりょうぐん)に改められ、九〇〇石の領地を知行するようになり、このとき国納村を支配するようになったと考えられる。その後、正徳(しょうとく)元年(一七一一)十二月十九日に清英が、享保七年(一七二二)四月二日に宏次が遺領を継いでいる。宏次は弟一忠に武蔵国埼玉郡・相模国高座郡・淘綾郡の内に三〇〇石を分け与え、分家としているが、国納村の領地のすべてが一忠に分け与えられたかどうかは定かではない。宏次は明和四年(一七六七)八月十六日に没し、その遺領は子の次賢が継いでいる。一忠は宝暦七年(一七五七)七月一日に没し、その遺領は子の一真が継ぎ、天明二年(一七八二)には一真の子一義が継いでいる。