『新編武蔵』の国納村の項に「元禄十年高木・森川・戸田の三人に賜わり、今もその子孫高木善之助・森川鎌三郎・戸田靭負等が采邑なり」と記されている。この森川家の当主は森川重良である。
『寛政重修諸家譜』によれば、森川家は森川出羽守重俊の三男重頼が起こした家で、寛永十八年(一六四一)十二月十三日稟米三〇〇俵が与えられている。重良は設楽甚兵衛貞辰(しだらじんべえさだたつ)の三男で、重頼の養子となって重頼の子を妻とし、延宝四年(一六七六)七月十二日に重良が家を継ぎ、同五年五月十日に書院番となっている。元禄十年七月二十六日に領地を武蔵国埼玉郡、相模国高座郡に改められ、六〇〇石を知行するようになり、このとき国納村を支配するようになったと考えられる。その後、享保六年十一月五日に重良は没し、その遺領は俊賢が継いでいる。寛延元年(一七四八)に俊顯が、寛政四年(一七九二)には俊輝が、寛政八年には俊懌が継いでいる。