『新編武蔵』の久米原村の項に「今は一橋殿領知と堀田相模守・渥美九郎兵衛・細井金之丞(ほったさがみのかみ・あつみくろべえ・ほそいきんのじょう)の知る所なり」と記されている。武蔵国埼玉郡に知行地を持ち、九郎兵衛を名乗る渥美家は、渥美友元(とももと)を祖とする渥美家と考えられる。
『寛政重修諸家譜』によれば、渥美家は、一時期織田信長(おだのぶなが)に仕えるが、代々徳川家に仕えている。二代友勝(ともかつ)は家康の関東入部のときに関東へ移り住み、上総国(かずさのくに)(千葉県)周准郡(すえぐん)に一〇〇〇石の采地を与えられている。三代友重(ともしげ)は天正十八年(一五九〇)の岩槻城攻めに参加しており、傷を負っている。その後家康の次男結城秀康(ゆうきひでやす)の家臣となり、秀康死後は浪人となっている。四代の政勝(まさかつ)は家光の家臣となり、上総国に五〇〇石の采地を与えられたが、その後高田(たかだ)(新潟県上越市)藩主松平光長(まつだいらみつなが)の家臣となり、長男友貫が父の遣領を継いでいる。
次男の友勝(ともかつ)は家光に仕え、慶安二年十二月十五日に稟米三〇〇俵が与えられ、延宝二年に三〇〇俵が加えられている。さらに天和二年四月二十一日には上野国(こうづけのくに)(群馬県)邑楽郡・下野国(おうらぐん・しもつけのくに)(栃木県)安蘇郡(あそぐん)五〇〇石の領地が与えられている。同年七月十二日に子の友延(とものぶ)が遺領を継ぎ、稟米の六〇〇俵を改めて武蔵国埼玉郡と相模国(さがみのくに)(神奈川県)大住郡(おおすみぐん)に六〇〇石の領地を与えられ、都合一一〇〇石の領地を知行する旗本となっている。このとき久米原村を支配するようになったと考えられる。友延は享保八年二月一日に没しており、その遺領は子の友武(ともたけ)が継ぎ、寛延三年には、友将(ともまさ)が、天明八年には友貞(ともさだ)が継いでいる。