『寛政重修諸家譜』によれば、政俊は秀忠に仕え、甲斐国に三〇〇石を与えられている。慶安三年に政治が遺領を継ぎ、寛文元年に常陸国(ひたちのくに)(茨城県)行方郡(なめかたぐん)、信太郡(しだぐん)に領地を移されている。その後、寛文三年には二〇〇俵を加えられ、同八年に正信(まさのぶ)が遺領を継いでいる。貞享四年には正次(まさつぐ)が継ぎ、元禄十年に稟米分を上総国山辺郡・武射郡(むさぐん)に二〇〇石の領地を与えられている。元禄十三年七月十一日には正春(まさはる)が遺領を継ぎ、元文元年に武蔵国埼玉郡において五〇〇石を加えられ、都合一〇〇〇石の旗本となっている。このとき百間村を支配するようになったと考えられる。正春は延享元年(一七四四)六月二日に没し、その後を正峰(まさみね)が、明和六年には正方(まさかた)が、安永三年には正武(まさたけ)が継いでいる。
3-16 旗本松波氏支配領域