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旗本森川家

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『新編武蔵』の百間村の項に「今は森川伊豆守・松波貞太郎の知る所なり」と記されている。武蔵国埼玉郡に知行地を持つ森川家は数多くあるが、『寛政重修諸家譜』と『新編武蔵』、『旧旗下相知行調(きゅうはたもとあいちぎょうしらべ)』の記載から判断すると森川重名を祖とする森川家と考えられる。
 『寛政重修諸家譜』によれば、重名は家光に仕え、寛永十一年に常陸国信太郡に五〇〇石の領地を与えられている。明暦二年(一六五六)には新たに三〇〇俵を加えられ、万治二年にはさらに一〇〇〇俵を加えられている。寛文二年にはさらに一二〇〇石を加えられ、武蔵国埼玉郡において三〇〇〇石を知行する旗本となっている。同四年には下総国岡田郡に三〇〇〇石を加えられている。同六年に重高(しげたか)が遺領を継ぎ、同十一年に弟俊勝(としかつ)に一〇〇〇石の領地を分け与えている。天和二年には一〇〇〇石を上野国山田郡において加えられている。元禄六年十二月十一日には俊央が遺領を継ぎ、享保十年七月八日に下総国岡田郡の一部が武蔵国埼玉郡へ移されている。このとき百間村を支配するようになったと考えられる。俊央は享保十七年三月九日に没しているが、その遺領は俊因が継ぎ、明和元年には俊清が、寛政二年には俊世が継いでいる。

3-17 旗本森川氏支配領域