明治政府は早くから修史事業を行い、治政のための必要な基礎資料を収集するために、地方行政の沿革と現況の調査に着手した。この事業の一環として「旧旗下相知行調」が作成された。「旧旗下相知行調」は明治十七年(一八八四)に内務省地理局の照会により埼玉県が県下の町村に通達作成させたもので、同時期に「武蔵国郡村誌」の編纂(へんさん)も行われている。
「旧旗下相知行調」には、明治元年の各村を知行した旗本の様子がまとめられ、村名をはじめ、旗本名、知行高、ほかの知行村名と知行高、先代および先々代、住所が記載され、江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』以降の家系を知ることができる。しかし、各町村の報告には精粗があり、錯誤や矛盾があってもそのまま記載されている。
当町では、百間中村が池田大隅守(おおすみのかみ)、百間東村が永井兼之助、国納村が森川銘太郎と戸田左近、高木市左衛門、東粂原村が細井惣左衛門と渥美九郎兵衛、和戸村が榊原小太郎と山本市郎兵衛、須賀村が池田大隅守と永井兼之助、小笠原鎚太郎、百間金谷原組が松波恒太郎、百間西原組が森川弥十郎の知行地になっていたことが分かる。