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岩槻藩

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江戸の防備の要衝として老中などの要職の大名が支配をし、藩主がめまぐるしく交替している。天正十八年(一五九〇)の徳川氏の関東入国と同時に、岩槻藩には高力(こうりき)氏が二万石で入封している。元和(げんな)五年(一六一九)に高力氏が遠江国(とおとうみのくに)浜松(静岡県浜松市)へ移封になると、翌六年に青山(あおやま)氏が四万五〇〇〇石で入封している。同九年に青山氏が上総国大多喜(かずさのくにおおたき)(千葉県大多喜町)へ移封すると阿部(あべ)氏が五万五〇〇〇石で小田原(神奈川県小田原市)から入封している。阿部氏は最大で一一万五〇〇〇石の領地を持つ大大名となり、天和(てんな)元年(一六八一)に丹後国宮津(たんごのくにみやづ)(京都府宮津市)へ移封している。その後板倉(いたくら)氏が六万石で下野国烏山(しもつけのくにからすやま)(栃木県烏山町)から入封し、翌二年には戸田氏が五万一〇〇〇石で入封している。貞享(じょうきょう)三年(一六八六)に戸田氏が下総国佐倉(千葉県佐倉市)へ移封すると松平(まつだいら)氏(藤井)が四万八〇〇〇石で丹波国(たんばのくに)亀山(京都府亀岡市)から入封している。元禄十年(一六九七)に松平氏(藤井)が但馬国出石(たじまのくにいずし)(兵庫県出石町)へ移封すると、小笠原氏が五万石で三河国吉田(愛知県豊橋市)から入封している。正徳元年(一七一一)に小笠原氏が遠江国掛川(とおとうみのくにかけがわ)(静岡県掛川市)へ移封すると、永井氏が三万三〇〇〇石で信濃国飯山(長野県飯山市)から入封している。宝暦六年(一七五六)に永井氏が美濃国(みののくに)加納(岐阜県岐阜市)へ移封すると、大岡忠光(おおおかただみつ)が二万石で入封し、その後は廃藩まで大岡氏の支配が続いた。
 当町では『新編武蔵風土記』によれば、久米原村と須賀村が阿部対馬守(あべつしまのかみ)の領地となっている。『武蔵田園簿(むさしでんえんぼ)』では久米原村の三一一石二斗二升七合と須賀村の二〇六石二斗五升の合計五一七石四斗七升七合が阿部対馬守(あべつしまのかみ)の領地となっている。
 阿部対馬守とは、重次のことで、寛永十五年(一六三八)から慶安四年(一六五一)まで藩主となっている。粂原村と須賀村が岩槻藩領であった期間は定かではないが、少なくとも阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏が藩主であった時期は岩槻藩領であったと思われる。この二か村が岩槻藩領であったことが確認できる資料は、『武蔵田園簿』や寛文四年(一六六四)の『寛文印知集(かんぶんいんちしゅう)』、貞享三年の「武蔵国岩築城附郷村高帳(むさしのくにいわつきじょうつきごうそんたかちょう)」(松平家文書)などがある。

3-18 阿部氏から松平氏支配までの岩槻藩領
(須賀村は他領含む)

 百間(もんま)村のうち西原(にしばら)組・金谷原(かねやはら)組は、元禄十六年の「日光御成道道拵役免除願(にっこうおなりみちみちごしらえめんじょねがい)」(折原家文書)によれば、元禄十年に小笠原佐渡守(おがさわらさどのかみ)領分になったとある。佐渡守は長重のことで、同年に岩槻藩主となっている。小笠原氏は五万石で岩槻藩主となっており、前の藩主であった松平氏(四万八〇〇〇石)、後の藩主であった永井氏(三万三〇〇〇石)と比べ大きな大名であったため百間村も岩槻藩領に組み入れられたと考えられる。このことから百間村が岩槻藩領であった期間は小笠原氏が岩槻藩主であった元禄十年から正徳元年(一七一一)までであったと推測できる。

3-19 小笠原氏支配の岩槻藩領 
(須賀村は他領含む)


3-20 岩槻城跡