当町では『新編武蔵風土記』によれば、久米原村と須賀村が阿部対馬守(あべつしまのかみ)の領地となっている。『武蔵田園簿(むさしでんえんぼ)』では久米原村の三一一石二斗二升七合と須賀村の二〇六石二斗五升の合計五一七石四斗七升七合が阿部対馬守(あべつしまのかみ)の領地となっている。
阿部対馬守とは、重次のことで、寛永十五年(一六三八)から慶安四年(一六五一)まで藩主となっている。粂原村と須賀村が岩槻藩領であった期間は定かではないが、少なくとも阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平氏が藩主であった時期は岩槻藩領であったと思われる。この二か村が岩槻藩領であったことが確認できる資料は、『武蔵田園簿』や寛文四年(一六六四)の『寛文印知集(かんぶんいんちしゅう)』、貞享三年の「武蔵国岩築城附郷村高帳(むさしのくにいわつきじょうつきごうそんたかちょう)」(松平家文書)などがある。
3-18 阿部氏から松平氏支配までの岩槻藩領
(須賀村は他領含む)
百間(もんま)村のうち西原(にしばら)組・金谷原(かねやはら)組は、元禄十六年の「日光御成道道拵役免除願(にっこうおなりみちみちごしらえめんじょねがい)」(折原家文書)によれば、元禄十年に小笠原佐渡守(おがさわらさどのかみ)領分になったとある。佐渡守は長重のことで、同年に岩槻藩主となっている。小笠原氏は五万石で岩槻藩主となっており、前の藩主であった松平氏(四万八〇〇〇石)、後の藩主であった永井氏(三万三〇〇〇石)と比べ大きな大名であったため百間村も岩槻藩領に組み入れられたと考えられる。このことから百間村が岩槻藩領であった期間は小笠原氏が岩槻藩主であった元禄十年から正徳元年(一七一一)までであったと推測できる。
3-19 小笠原氏支配の岩槻藩領
(須賀村は他領含む)
3-20 岩槻城跡