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久喜藩

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貞享(じょうきょう)元年に米津政武(よねきつまさたけ)が久喜に陣屋を構えたことによって成立した。米津氏(よねきつし)は三河以来の徳川家の家臣で、初代の田政は家康に仕え、江戸町奉行を勤めて五〇〇〇石を与えられている。二代の田盛は大坂定番となり一万石を加えられ、一万五〇〇〇石を領する大名となった。貞享元年一月に田盛が大坂で没すると長男政武が継ぎ、父の遺領のうち三〇〇〇石を弟田賢に分け与え、自らは一万二〇〇〇石を領し、久喜に陣屋を構えた。その後は政矩・政容・政崇・通政が継ぎ、通政が当主のときの寛政十年(一七九八)七月に武蔵国の所領六四〇〇石を出羽国村山郡(でわのくにむらやまぐん)(山形県東根市)に移され、居所を同郡の長瀞としたため、久喜陣屋は廃止となった。

3-21 久喜藩の領域 (東粂原村は他領含む)


3-22 久喜陣屋跡

 当町では『新編武蔵』によれば百間村が元禄十五年から宝暦三年まで、蓮谷村が宝暦十三年まで米津越中守の領地であったと記載されている。宝暦年中の米津氏の領地には埼玉郡一二か村、多摩郡七か村、上総国九か村、下総国七か村、常陸国二か村の合計三七か村が確認でき、当町では百間村の三〇四石九斗九升九合三勺、蓮谷村の一〇二石四斗八升三合、久米原村の一三一石四斗一合が領地となっている。
 百間村は『新編武蔵』に元禄十五年から宝暦三年まで米津氏の領地であると記載されているが、その期間には疑問がある。蓮谷村は『新編武蔵』の記載に宝暦十三年までとある。久米原村は『新編武蔵』の記載では米津氏の領地であったことを確認できない。しかし、この三か村は佐倉藩の領地になったことが確認できること、同時期に久喜藩(久喜市)から佐倉藩(千葉県佐倉市)になった青柳村(久喜市)は元禄十六年から宝暦十三年まで久喜藩であったこと、元禄十六年に政容が藩主となっていること、天明年中には米津氏の領地でないことなどから、百間村・蓮谷村・久米原村は元禄十六年から宝暦十三年まで久喜藩であったと推測できる。