3-21 久喜藩の領域 (東粂原村は他領含む)
3-22 久喜陣屋跡
当町では『新編武蔵』によれば百間村が元禄十五年から宝暦三年まで、蓮谷村が宝暦十三年まで米津越中守の領地であったと記載されている。宝暦年中の米津氏の領地には埼玉郡一二か村、多摩郡七か村、上総国九か村、下総国七か村、常陸国二か村の合計三七か村が確認でき、当町では百間村の三〇四石九斗九升九合三勺、蓮谷村の一〇二石四斗八升三合、久米原村の一三一石四斗一合が領地となっている。
百間村は『新編武蔵』に元禄十五年から宝暦三年まで米津氏の領地であると記載されているが、その期間には疑問がある。蓮谷村は『新編武蔵』の記載に宝暦十三年までとある。久米原村は『新編武蔵』の記載では米津氏の領地であったことを確認できない。しかし、この三か村は佐倉藩の領地になったことが確認できること、同時期に久喜藩(久喜市)から佐倉藩(千葉県佐倉市)になった青柳村(久喜市)は元禄十六年から宝暦十三年まで久喜藩であったこと、元禄十六年に政容が藩主となっていること、天明年中には米津氏の領地でないことなどから、百間村・蓮谷村・久米原村は元禄十六年から宝暦十三年まで久喜藩であったと推測できる。