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一橋家と領地

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一橋家は、八代将軍吉宗の四男宗尹を祖とする家で、享保二十年(一七三五)に賄料(まかない)金三〇〇〇両を与えられている。元文二年(一七三七)には賄料二万俵に改められ、同五年に江戸城内の一橋門内に宅地および新たに賄料一万俵を与えられている。翌寛保元年(一七四一)に住居を一橋門内に移したため、一橋という名称を用いている。延享三年(一七四六)には賄料領地として武蔵(むさし)・下総・下野・甲斐・和泉・播磨(かい・いずみ・はりま)の六か国に一〇万石を与えられ、一橋家の基盤が確立された。
 徳川一門の御三家は、独立した大名であったが、一橋家と田安家・清水家は御三卿と称し、将軍家の一員として位置付けられた。家臣は、将軍家から俸禄を与えられる御付人、幕府が御三卿に俸禄を支払ってから俸禄を与えられる御付切、直接御三卿から俸禄を与えられる御抱入と分けられることからも、独立した家でないことが分かる。
 当主は、初代宗尹、二代治済、三代斉敦、四代斉礼と実子が相続しているが、五代斉位、六代慶昌、七代慶寿、八代昌丸は近親による養子縁組により相続を行っている。九代慶喜、一〇代茂栄は徳川一門からの養子縁組によって相続をしている。
 二代治済の長男家斉は天明七年(一七八七)四月に一一代将軍となっている。実父である治済は幕政に関与し、田沼意次(たぬまおきつぐ)をおさえ、松平定信(まつだいらさだのぶ)を登用した。九代慶喜(よしのぶ)は水戸徳川家から養子として一橋家を相続したが、一四代将軍家茂の後見職を勤め、後に徳川家最後の将軍である一五代将軍に就任している。
 当町においては、『武蔵国郡村誌』の西粂原村の項には延享三年に一橋領知となると記載されており、一橋家が成立した当初から領地となった村の一つであったことが分かる。西粂原村は延享三年に一橋家の領地となった後は領主が替わることなく、明治維新に至っている。武蔵国の一橋家の領地は、『旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)』によれば約一万五三二八石で、埼玉郡に約七一九七石、葛飾郡に約一四六九石、高麗郡(こまぐん)内に約六六六一石が与えられている。

3-23 一橋家の領域