江戸に近いため、幕府の重臣が配置され、城主は八家二一代に及んでいる。天正十八年に徳川家康が関東へ入国すると酒井重忠(さかいしげただ)が一万石で入封している。酒井氏が慶長六年に厩橋(うまやばし)(前橋)へ移封になり、その後同十四年に駿河国田中(するがのくにたなか)(静岡県藤枝市)城主酒井忠利(ただとし)(重忠の弟)が二万石で入封している。寛永四年には嫡子である深谷藩主忠勝が遺領と合わせて八万石を継嗣した。酒井氏が寛永十一年に若狭国小浜(わかさのくにおばま)(福井県小浜市)へ移封になると、同十三年に堀田正盛が三万五〇〇〇石で入封し、同十五年には信濃国松本へ移封となっている。翌十六年には忍藩(行田市)主松平(大河内)信綱が六万石で入封している。松平氏は元禄七年に下総国古河へ移封となり、柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が七万二〇〇〇石で入封している。柳沢氏は宝永元年(一七〇四)に甲府へ移封となり、秋元喬知が五万石で入封している。秋元氏は明和四年(一七六七)に出羽国山形(でわのくにやまがた)へ移封し、松平(越前)朝矩が一五万石で前橋から入封している。松平氏は慶応三年(一八六七)に前橋へ移封となり、松平(松井)康英(ひでやす)が陸奥国棚倉(むつのくにたなくら)から八万四四二石で入封し、松平氏の支配下で廃藩をむかえている。
当町で川越藩となった村は、笠原沼新田須賀村持添(もちぞえ)分が確認できている。『新編武蔵』の須賀村の項には「安永七年(一七七八)その地を分ちて、松平大和守(まつだいらやまとのかみ)に賜われり」とある。また、『郡村誌』の須賀村の項には「明和七年六月直轄の地を川越城主松平大和守に賜いしが、文政四年(一八二一)六月収めて直管に復す」とある。加藤家文書や近隣の藩領への編入状況を見ると『郡村誌』の記載が正しく、笠原沼新田須賀村持添分は明和七年から文政四年まで川越藩領であった。
3-26 川越藩の領域
3-27 川越城跡