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元和五年の須賀村検地帳

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元和五年の須賀村検地帳は、近世のある時期に写されたものである。書写の年代はないが、書体や紙などからみて、近世前期の写しであると推測される。恐らく戸田家伝来のほかの古文書と同時期に、村役人としての実務上の必要から写されたのだろう。また、検地帳は土地の基本台帳であるので、永く後世へ伝えていく必要もあったのだろう。写しのためか、記載を注意してみると、「五郎右衛門へ渡ス」「和戸へ」など土地の異動を記した加筆や、明らかな後筆・異筆も若干みられる。

3-32 元和5年須賀村新田検地帳 (戸田家文書)

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 この検地帳は、竪紙一枚を縦に二つ折りした竪帳の形態であり、大きさは三三・五×二三・五センチである。表紙に記されたタイトル(表題)は、「武州騎東郡百間内須賀村新田御検地帳(ぶしゅうきとうぐんもんまのうちすかむらしんでんごけんちちょう)」・「武州騎東郡百間内須賀村新田御検地水帳(みずちょう)」などと付されている。現状では三分冊(「本田帳」を加えると四分冊)となっているが、本来の体裁は、「八帳之内」「八之内」などと表紙に記されるように、八冊(「本田帳」を加えると九冊)から成り立っていたと考えられる。その構成は、日付と案内人の違いによって冊子が分けられていた。
 注目されるのは、表題中「騎東郡」とあることである。これは、騎西・崎(埼)西に対する言葉で、「崎(埼)東郡」と充てられることもある。中世後期から近世初期にかけてみられる郡名で、崎(埼)玉東郡が語源として考えられる。その範囲は、埼玉郡のうち中世太田庄(おおたのしょう)の庄域であるという説がある。騎西(きさい)に対し騎東の事例は極端に少ないが、それは「太田庄」と記す場合が多いためともいわれている。