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耕地の様子

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元和五年(一六一九)の検地帳により、当時の須賀村の耕地についてみてみよう。
 検地帳の数字を合計すると、田方一四町五反余、畑方一二〇町七反余、田畑の合計は一三五町二反余となる。耕地の割合は田方約一〇・七パーセント、畑方約八九・三パーセントと、圧倒的に畑方優位の村であった。なお、約二五〇年後、明治八年(一八七五)ごろの田方は二四町三反余、畑は一三七町一反余、田畑計一六一町五反余(『郡村誌』)である。近世を通じて、田地は一〇町近く、畑地は一七町近く増加したことになる。増加率は、田地約七一・四パーセント・畑地約一四・二パーセントとなり、全体の耕地面積からすると少ないものの、田地は畑地よりも高い割合で開発された。
 さて、検地帳には耕地のある字名が記されている。3-33は字別の田畑筆数を一覧にしたものである。

3-33 元和5年須賀村字別の耕地等級筆数 (戸田家文書)

 筆数の最も多いのは「堤外」の七五筆、田方のみでは「沼はた」の五七筆、畑方のみでは「堤外」の七五筆である。須賀村は畑方が圧倒的に優位なので、畑のみの字が目立つ。畑のうち四割以上は収穫量の低い下畑である。これらの畑地は、恐らく中世から台地や微高地に開かれていたのだろう。
 一方田方は、「加沼(かぬま)」「金剛寺(こんごうじ)」「しほや」「しみつはた」「沼はた」「深戸(ふこうど)」「前須賀(まえすか)」の九か所にあり、このうち「加沼」「しほや」「しみつはた」「沼はた」は、すべて田地かあるいは田地の割合が高い。等級は上田六九筆、下田七〇筆で、ほぼ同じ割合となっている。収穫量の低い下田のうち四四筆は今日の辰新田付近にあたる「沼はた」に集中しており、沼の端という字名から考えて、沼縁りの湿田ではないかと思われる。また、「沼」や「や(谷)」、「しみつ(清水)」といった水に関わる地名の場所に、水田が開かれていたことが想像されよう。こうした水辺の耕地は不安定な湿田であり、寛永十九年(一六四二)の須賀村年貢割付状(わりつけじょう)(戸田家文書)では、中田三反一畝三歩が見捨地として、下田一町九反五畝が「どぶ不作」として、年貢減免の措置がとられている。
 なお、3-33中の字名のうち現行の字名に残るものは九か所、明治初期の字名でも一〇か所のみである。公式に残らなかった小字名の場所は、今後検地帳の記載順や、地元の伝承などから辿(たど)って行くしかないだろう。