3-34は、田畑所持面積の大きい名請人順に、検地帳を集計したものである。○○衛門、○○兵衛など、今日の私たちの名前とは随分異なった付け方の名前が並ぶ。勘ケ由(かげゆ)、左京之介(さきょうのすけ)、兵庫、外記(げき)、右近(うこん)、隼人(はやと)、修理、将監、主計、内蔵介(くらのすけ)、玄蕃(げんば)、釆女、内匠(たくみ)といった、官職に由来する武士的な名前のものが目立つことに注意しよう。また、登録者が男性のみである点も現代との大きな違いである。当時の家長たちの名前である。
3-34 元和5年須賀村名請人別耕地集計表
案内人の一人、勘ケ由が六町六反七畝二二歩と最も広く田畑を所持していた。最小は七蔵の四畝二四歩であった。百間村や和戸村など他村に土地を持っていたり、他村から入作している者がいるかも知れないので、この表の数字が各名請人の耕地総計とはいえない。しかし、五六人中四八人は須賀村に屋敷地を持っていることから、須賀村に住んでいた者たちの、自村内での耕地所持の様子はうかがえるだろう。
田畑所持面積順の須賀村の階層構成を示したものが、3-35である。
3-35 元和5年須賀村名請人別階層構成 (耕地面積、戸田家文書)
一人あたりの平均耕地所持面積は、二町四反二畝余である。表をみても、一町~三町台のものが四三人(うち寺院一)と最も多く、中間層を形成している。五町以上のものは三人、一町未満は六人(うち寺院一)であり、少数である。
検地の案内人たちのうち、勘ケ由は最上層であるが、九右衛門、四郎左衛門、四郎兵衛は中層上位の三町台の耕地所持、内匠は一町台で中層階である。彼らは田畑所持からみて中・上層の有力農民であるといえよう。