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近世の村

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今日に残る大字の地名は、もともとは江戸時代の村落である場合が多い。百間(もんま)、須賀(すか)、和戸(わど)、国納(こくのう)、西粂原(にしくめはら)、東粂原(ひがしくめはら)などは、近世村の名称を引き継いでいる。ただし、区域に関しては現行字名=近世の村域とはならないので、注意が必要だ。それは、百間村のような大村で村内が幾つかに分散している場合、それぞれが大字名として残っていたり、現代の住居表示変更により変化したりしているからである。

3-39 近世村(上)と現行行政区(下)対称図

 村というと、私たちは自然発生的な集落を想像する。はるか太古から人類はそうした村落単位で生産活動を行い、生活を営んできた。しかし、近世の「村」というときには、もう少し歴史的に限定された用語となる。すなわち、領主からの命令や指示、年貢諸役の負担などを請け負う単位が近世の村であった(村請制度(むらうけせいど))。そのニュアンスは、今日の民主的な制度ではなく、封建的な身分制度によって人々の自由が制限されているという点を除けば、市町村など行政単位に近い。法令の伝達、徴税事務、土地台帳の保管、住民の登録など行政的な仕事は、村を単位に行われた。そして、最も重要なことは、年貢諸役の賦課が村の総石高(村高)を基準としていたことである。
 江戸幕府では、正保・元禄・天保の三回、全国の村々と村高を国郡別にまとめた「郷帳」という帳簿を作成している。「郷帳」の起源は、慶長期に日本を統一した豊臣秀吉が徴した「御前帳」にあるという。これにより日本全土を統治する人々は、石高という同一の基準で全土の把握が可能になった。
 「郷帳」などから町域の「村」と村高を示したのが3-40である。「正保田園簿(しょうほうでんえんぼ)」は正保郷帳の案と考えられる帳簿、「旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)」は明治政府が旧幕府時代の諸制度を取調べたときの帳簿である。百間村の分村の過程や、各村の村高が総体的に増加傾向にあることが読みとれよう。

3-40 町城近世村の村高変遷

 ただし、「正保田園簿」の数字は一考を要する。それは元禄郷帳と比して、百間村の村高が八〇〇石以上、国納村の村高が一二〇石以上多いこと、須賀村の村高が岩槻藩領分二〇六石余のみであること、などの点である。これらは、元和の百間領の検地と村の成立が、一般的な検地と近世村落の成立からは説明できないことを示している。例えば、「正保田園簿」では、岩槻藩領分以外の須賀村の村高が百間村に含まれている可能性がある。前節にみた元和五年(一六一九)百間領検地では、小農民の創出ではなく古い土豪百姓層の土地が把握されていた。このことは、百間領全体として中世来の村落の状況が残されていたということであり、百間「領」と「百間(もんま)」「須賀(すか)」など各「村」が並立して存在していたということである。「正保田園簿」にみえる村高記載の矛盾は、町域では近世村が一律に成立したわけではないことを示しているのではないだろうか。