太平の世すでに久しく、江戸では元禄の文化が華やいでいた宝永三年(一七〇六)、須賀村では一通の質地証文が作成されている(「質物ニ相渡申田畑家屋鋪之事」戸田家文書)。これは、須賀村新田の地主九右衛門(くえもん)の田畑屋敷三町四反六歩を権兵衛(ごんべえ)に質入れした証文である。この土地は、検地帳では「九右衛門分」の名義であり、この証文の差出人(作成者)は「地主 九右衛門」である。九右衛門は元和検地の案内人で中世末よりの須賀村の最有力な農民であり、権兵衛は第一節でみた戸田家の当主で、元和検地の案内人ではない。この証文は旧来の土豪百姓層が土地を維持できなくなり、ほかの一般農民の間に埋没していく動向を示唆していよう。
さらに注目されるのは、この質地証文では九右衛門と共に「願人」として三〇人の農民の名が連ねられていることである。彼らの多くは、元和五年検地帳では土豪百姓の一族や配下にあって、土地耕作者として正式に登録されなかった者たちであろう。このように近世中期には、彼ら小百姓の社会的・経済的成長を確認することができる。
こうした須賀村農民の変化は、どのような過程で生まれてきたのだろうか。元禄十年(一六九七)、兄弟か同族と思われる孫右衛門と孫兵衛は、田畑二町余を分け合って所持することになった(「田畑分ヶ覚(でんぱたわけおぼえ)」戸田家文書)。分家の創出であろう。また、宝永三年源兵衛(げんべえ)と四郎兵衛(しろべえ)、彦左衛門(ひこざえもん)の三人は、検地帳には太郎左衛門(たろうざえもん)名義となっている田畑を分け合った(「入置申証文之事(いれおきもうすしょうもんのこと)」戸田家文書)。こうした分家の創出や分地の進行が、土豪百姓の土地所持の解体を促していったのだろう。また、土豪百姓の側も、戦乱の世にあって軍役を勤めるときには必要であった召使いや家来たちを含む大きな家が、平和な世になり農民身分となった近世では無用となり、幕府の小農自立・維持策もあって必然的に解体していったのだろう。
3-41 元禄10年田畑分ヶ覚 (戸田家文書)