では実際に近世初期の年貢の様子を、寛永十九年(一六四二)戸田家の年貢割付状(戸田家文書)からみてみよう。
午ノ年百間之内須賀村御年貢可納割付之事
一、高三百石之分 田畠屋敷共ニ
一、上田弐町壱反七畝弐歩 内四反六畝拾弐歩当毛ノ見捨ニ引
一、中田壱町弐反七畝歩 内三反壱畝三歩当毛ノ見捨ニ引
一、下田弐町三反壱歩 内弐反弐畝弐拾九歩当毛ノ見捨ニ引
壱町九反五畝八歩どぶ不作
年々ひらき
一、下田九畝四歩 内弐畝歩 当毛ノ見捨ニ引
田合五町八反三畝七歩
此内弐町九反弐拾弐歩 不作 当毛ノ見捨
残而弐町八反七畝拾五歩
一、上田壱町七反弐拾歩 壱反ニ米五斗八升取
此取米九石八斗九升六合
一、中田九反五畝弐拾七歩 壱反ニ米四斗八升取
此取米四石六斗三合
一、下田壱反三畝弐拾四歩 壱反ニ米三斗八升取
此取米五斗弐升四合
年々ひらき
一、下田七畝四歩 壱反ニ米三斗五升取
此取米弐斗四升九合
(中略)
一、屋敷壱町七反弐畝拾五歩 壱反ニ永百三拾五文取
此取永二貫三百廿九文
米合拾五石弐斗七升弐合
此俵四拾三俵弐斗弐升弐合
永合三拾五貫六百文
此金三拾五両弐歩銭四百文
右如此相定上ハ来霜月十五日切テ急度皆済可致者也、仍如件
寛永拾九年午ノ十月吉日 五十嵐三右衛門、(花押)
名主中殿
表題は子(寛永十九年)年の須賀村の納めなければならない年貢を割り付する、という意味である。
次の一つ書は、旗本永井氏の須賀村における知行高は三〇〇石で、年貢賦課される地目は田、畠、屋敷であるということ。須賀村は複数の領主がいる相給村であった。この地目は、検地帳の地目と同様である。検地と年貢納入が直結していたことを示す。通常はこの部分に村高が書かれることが多い。
続く一つ書四つは、田方の上・中・下の等級と、検見によって認められた控除分の土地が書かれている。「当毛ノ見捨ニ引」とは、今年の作柄調査で見捨地=不作地であると認め差し引く、という意味である。なお「ひらき」とは「開き」、つまり新開の耕地、新田という意味。
そして上・中・下田と年々開きの下田の年貢量を計算したのが、続く四つの一つ書である。控除分を差し引いた面積に、それぞれ反当たりの年貢量(一反ニ米〇斗〇升)を乗じて「此取米」、つまり年貢量を計算した。等級に石盛(等級ごとの一反当たりの収穫量見積もり)を乗じて総収穫見積もりを算出し、その数字に年貢率をかけるのが一般的な年貢の取り方である。しかし、関東地方ではこのように面積に直接反当たりの年貢量を掛け合わせる反取法をとることが多かった。
(中略)の部分は畑方の年貢量が同様に算出されている。畑方は米ではなく、屋敷と同じく「永」(永楽銭)で計算されている。
最後に、米合わせて一五石二斗七升二合、永合わせて三五貫六〇〇文が年貢として確定された。米は四三俵余の俵に換算された。換算率は一俵が三斗五升で、これは年貢納入など幕府公定の俵の換算率であった。実際に通用していたものは、四斗二升俵が多かったようである。なお、実際の廻米の時には、遺漏分を上乗せして二升程度多めに俵に入れた。一方、「永」(永楽銭)は「金」に換算されている。永一貫文が金一両である。実は永楽銭は近世には流通しておらず、寛永通宝などの「銭」が使われていた。「永」が名目上残ったのは、「金」との換算に便利だったからである。「銭」(鐚銭(びたせん))では四貫文が永一貫文、金一両(この換算は近世中期まで)で端数がでると金との換算が複雑になってしまうので、永が書類上使われたということである。
日付・署名の前にある文言は、このように(年貢を)定めたので、十一月十五日までに必ず全て納入を済ませなさい、という意味である。