村の運営費は、村入用といわれ村民に割り振られた。年貢が領主に対する村民負担であったのに対し、村入用は村の自治費的な負担であった。ただし、村費の円滑な運営は領主にとっても都合がよかったので、帳簿である「村入用帳(むらにゅうようちょう)」は領主役所へ提出され、監査を受けるのが普通だった。村入用の内訳は文書作成用の筆・墨・紙代や蝋燭(ろうそく)代、出府費用や通信費など村運営の事務経費である。支出のたびに帳簿に記され、名主が立て替えて支払い、後でまとめて村民から徴収した。当時は予算の観念がなく、すべて決算であった。
さて、町域の村役人の事例では、寛永十九年須賀村年貢割付状(戸田家文書)の宛所に、「名主中殿」とみえるのが初見となる。農民身分である名主に「殿」と礼を厚くしているのは、当時須賀村が土豪百姓中心の村落で、名主が中世来の有力者であったからだろう。六年後の慶安元年の須賀村年貢割付状(戸田家文書)では、「名主中、百姓中」とあり、「名主」に併記して「百姓」の文言がみえる。須賀村の村落構成員の変化、土豪百姓から小百姓主体への変化を間接的に示しているのだろうか。
3-43 名主中殿と記された須賀村年貢割付状 (戸田家文書)
3-44 名主中・百姓中と記された須賀村年貢割付状(戸田家文書)
近世初期や前期の町域の村の具体的運営については、資料がなく不明である。村の中心的構成員であった土豪百姓たちによる運営がなされていたのだろう。
近世中期の享保十年(一七二五)二月のことである。須賀村では、名主加右衛門(かうえもん)が病身を理由に退役願を領主に提出した。この六年前、やはり退役願を提出しようとしたところ、須賀村本村・前須賀(まえすか)の村民の同意を得られず退役願を取り下げたという経緯があった。再びの退役願に、領主から村民へ差し支えないか御尋ねがあったところ、即答しかねるので村民たちは金剛寺へ集まり相談した。たびたびの慰留は上意にも憚(はばか)られるので退役を認めることとなり、組頭市兵衛をはじめ百姓たちは異議がない旨証文を作成した(「入置申一札之事」戸田家文書)。
この一件から、近世中期には名主役任免は村民の意向を無視できず、村民たちは寄合の場で協議を行っていたことが分かる。小百姓たちの成長がその背景としてあるのだろう。
宝永三年の分地証文(戸田家文書)では、土地の配分にあたって村中の者が立ち会い相談の上所持者が納得のいくように分地することを取り決めた。また、正徳元年(一七一一)須賀新田村(すかしんでんむら)の甚五兵衛(じんごべえ)が木綿とそばを無断で苅り取ったことが問題となり、村民間で作物や真菰草(まこもぐさ)の無断収穫を禁ずる取り決めがなされた(「覚」戸田家文書)。その中に、「御百姓仲間ハ不及申ニ、地借り水呑等至迄」禁止し、もし苅り荒らしをする者がいたならば入札(いれふだ)で犯人を詮議し領主へ訴える旨を記している。入札とは選挙のことで、つまり寄合で選挙して犯人を決めるというのである。
近世中期にはこのように分地や収穫など、生産に関わる事柄について「百姓仲間」や「村中」は立ち会い、寄り合って合意を形成し、それに基づく主体的なルール作りが行われていた。