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お触と高札

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幕府や藩から出されるお触や旗本の申渡(もうしわたし)、そのほかさまざまな指示・命令を書き留めたものが「御用留」である。それらは、村々の回覧板的な文書である廻状によって伝達された。例えば、百間西原組(もんまにしばらぐみ)の村役人を勤めた新井家には、「御用触留帳」という帳簿が文政ごろから作成されている。ただし、「御用留」には、純然たるお触や命令を書き留めたもののほか、村内や村々の間の文書も書き留めた村役人の「公用日記」的なものもあった。
 時々に応じて出される法令や命令のほかに、日常的に村民が守るべき決まりを掲げたのが高札(こうさつ)である。高札は、法規を墨書した木札を掲げる掲示板で、村中で往来の多い中心地や辻に必ず一か所設けられていた。村役人が口頭で伝える法規とは異なり、日常村民の目に付く高札は、領主である武家が在村しない近世の村では、支配の象徴としての意味もあった。
 百間村西原上組の領主、旗本森川(もりかわ)氏は、近世後期と推測される卯年に当主代替わりによる「申渡」を惣知行所宛に触れ出した(市川家文書)。その中の一条に「一、御高札場大切ニ可仕候」と記し、破損分の修復や文字の墨入れについて指示がみえる。また、文久元年から二年にかけて(一八六一~六二)百間村では高札場の普請(工事)が行われた。工事の完成届(折原家文書)によれば、大工一一人、村役人足一五人により杉材を使って建てられた。費用は永三貫五二文四分四厘であった。この高札場は、天保六年(一八三五)に新規に建てられ、嘉永四年(一八五一)一度修復しているので、約一〇~一五年の周期で補修していた。