本文中では、幕府の公式帳簿にみえる百間村の分村を示した。この「柚木村」はその中には出てこない。武家の支配単位としての「村」と、地域住民が生活・生業を営む地区としての「村(民俗学でいうムラ)」は、必ずしも合致しているわけではなかった。こうした「村(ムラ)」のことを、組といったり、株ともいった。
こうした小地名は、庚申塔などの石造物や額や幟(のぼり)など寺社へ対する奉納物の、造立者や施主として多くみられる。また、武家支配との関わりが薄い古文書―例えば組や株管理の道橋普請や私文書などにも小地名はみえる。
延享二年(一七四四)の「武州百間西光院門末帳」(西光院文書)には、西光院の末寺と門徒の寺坊が記される。その中に、動(道)仏村、西原村、寺村、金谷原村、煤戸(すすど)村、若宮村(わかみやむら)、内野村(うちのむら)などの村名がある。これらの村(ムラ)が、当時の生活・生業とかかわりの深い信仰の面でもまとまりをみせていたことがわかる。
幕府郷帳にみえる「村」名は年貢納入や法令伝達など支配に関わる部分では機能していたが、日常的な村民生活はもう一つの村(ムラ・組・株)が舞台であった。しかし一方で、「百間」という中世以来の村域も住民たちには意識されていた。明治期『武蔵国郡村誌』の編者が、各組の境界を「あたかも碁石を散布した如く」と評した、百間村内の田畑所有の入り交じった状況は、「百間」という村域が全体として近代に至るまで意味を持ち続けた証左でもある。
3-48 浮彫観音菩薩立像墓石 (浄林寺所蔵)