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笠原沼の誕生

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利根川の改修を実施したのは、関東代官伊奈忠治・忠次(いなただはる・ただつぐ)親子であった。伊奈氏は新田開発にも携わっており、見沼溜井の造成が有名である。当町の笠原沼も見沼溜井の造成と同じ手法を用いて造成されたと考えられる。この手法は関東流と呼ばれ、伊奈氏の開発の特徴でもあった。上流からの水をせき止めるための土手を築き、下流の低湿地を耕地として開発するものであった。せき止められた水は、開発された耕地の用水源として利用し、溜井や沼となっている。
 笠原沼が造成されたのは、寛永年間と考えられ、大河内金兵衛(おおこうちきんべえ)が開発の中心であったと思われる。笠原沼の下手に横手堤を築き、上流からの水をせき止め、笠原沼が誕生した。また、沼の上手にも堤を築き、沼の範囲を固定している。笠原沼の誕生により、沼の水を用水源とし、下流域の大谷耕地が開発された。また、大河内金兵衛は堤を築くと同時に、騎西領の排水として金兵衛堀(爪田ヶ谷落堀)を開削し、上流である騎西領の排水を行うとともに、下流の用水源の安定を図っている。また、笠原沼を用水として利用するために沼の下流にある姫宮堀の道仏橋下に定堰(じょうぜき)を造っている。

3-49 横手堤跡

 笠原沼の誕生は、当町にとって良いことばかりではなかった。笠原沼の回りには、すでに田として把握されている耕地があった。しかし、笠原沼が誕生すると沼の水位は上昇し、沼の縁辺部の田は荒れ地となっている。須賀村(すかむら)の寛永十三年の年貢割付には永荒地の文字が記されており、すでに把握された耕地が荒れ地となったことを示している。須賀村の耕地が把握されたのは、元和五年であり、これらのことから、笠原沼は元和五年から寛永十三年の間に誕生した沼だといえよう。