寛文十二年(一六七二)四月六日に武州騎西領と百間村の水論に対して幕府の判断が下されている。折原家に残る「騎西領与百間村水論裁許状(きさいりょうともんまむらすいろんさいきょじょう)(折原家文書)」によれば、百間村は騎西領悪水堀の流末に堰を築き、用水を引いている。また、この堰については、万治元年(一六五八)ごろに隣村との争いがあったことを記している。しかし、このときは騎西領の村々は何の申出もしなかったため、百間村は従前通り堰を築いて用水を引くことを認められている。一方で騎西領から排水された水が滞ることのないように配慮することが求められている(折原家文書)。
元禄六年(一六九三)九月二十六日には、百間領西原村・西村・東村・道仏村(にしばらむら・にしむら・ひがしむら・どうぶつむら)と同領久米原村(くめはらむら)・須賀村・岩付領爪田ヶ谷村(つめたがやむら)との間に起こった騎西領落堀の堰論に対して幕府の判断が下されている。折原家に残る「騎西領落堀堰論裁許状(きさいりょうおとしぼりせきろんさいきょじょう)」によって双方の言い分を見ると百間領西原村・西村・東村・道仏村の農民は、騎西領の排水を笠原沼へ溜め置いて道仏橋下に堰を築いて用水を引いて来ている。一方、久米原村・須賀村・爪田ヶ谷村の農民は、爪田ヶ谷村に百間領の農民が堰を築いて用水を引いてきたことを示す堀筋があるので、道仏橋の下に築いた堰は新しいもので、さらに橋を幾つも作り、橋桁を築いたため、排水が滞って田が損害を受けたと主張している。
幕府は農民たちの言い分の真偽を確認するために争いとなった現地を調査し、判断を下している。幕府の判断を見ると騎西領の河原井沼(かわらいぬま)から爪田ヶ谷村までには、堀筋の村のための堰が五か所もあり、百間領の用水を引くための堰が一か所では、用水が不足することは明らかである。また、久米原村・須賀村・爪田ヶ谷村の主張する用水を引いていたという堀筋は、すでに草が生い茂り、用水として利用できるものではない。寛文十二年の裁許状のとおり堰を築いて水を引くのであれば、笠原沼の水を百間領の田の近くに引き落とし、道仏橋の下に堰を築くことが当然である。
3-50 万治元年頃の笠原沼水論絵図
一方で騎西領の排水が滞らないようにはするには久米原村・須賀村・爪田ヶ谷村の主張の通りに橋台を取り払い、川幅に合わせて長さ四間の橋を掛け、沼口より堰までの二三〇間は深さ二尺の堀とするように求めている。また、上流に水が多く被害を受けそうなときは堰を取り払って上流の村が水害を受けないようにしなければならないとしている。
3-51 寛文12年騎西領与百間村水論裁許状 (折原家文書)
3-52 元禄6年騎西領落堀堰論裁許状 (裏面、折原家文書)
3-53 元禄6年騎西領落堀堰論裁許状
(表面、折原家文書)
その後には新井白石(あらいはくせき)が野牛高岩(やぎゅうたかいわ)落堀を開削したために笠原沼に流れ込む水量が増加したことにより、正徳三年(一七一三)に野牛村と須賀村・蓮谷村との間に争いが起こっている。須賀村名主権兵衛・加右衛門(ごんべえ・かうえもん)と組頭伊左衛門・市兵衛・定四郎(いざえもん・いちべえ・ていしろう)、惣百姓が連署で、石井半平治・石川源八郎・内田小右衛門(いしいはんへいじ・いしかわげんぱちろう・うちだこうえもん)に当てて訴えている(戸田家文書)。
正徳五年には、笠原沼の水が溢れ、蒔田だけでなく、植田も水腐れとなったため、百間領須賀村の農民平兵衛(へいべえ)、久兵衛(きゅうべえ)、平左衛門(へいざえもん)、源兵衛(げんべえ)、清右衛門(せいうえもん)、吉左衛門(きちざえもん)、惣右衛門(そううえもん)、組頭伊左衛門(いざえもん)、定四郎(ていしろう)、市兵衛(いちべえ)、名主権兵衛(ごんべえ)、加右衛門(かうえもん)が、領主に水田を元の秣場(まぐさば)に戻して欲しいと願書を提出している(戸田家文書)。願書の内容を見ると、笠原沼の中に下田一町九反八畝二七歩がある。笠原沼は以前より下流の村々の用水を引くための溜沼で、荒れ地となっているが、二七、八年前から真菰(まこも)を植え、秣(まぐさ)を刈り取ってきている。八年前には耕地として開発することを命じられ、私たちも喜んで開発し、稲を植え付けてきた。しかし、沼の下流に土の堰を築いて上流の排水を溜め、しかも最近は上流にある新井白石の領地の騎西領野牛村からの排水のために新堀が開削されたため、沼の水がいっぱいとなり、蒔田が水腐となってしまった。その後水が引いたため植田としたが、溜沼であるため、大雨が降れば一昼夜のうちに大水となり、植田も水腐となってしまう。毎年のように不作となってしまうので、年貢を収めることもできず、私たちも蒔田と植田の二重の負担となるので、元の真菰原(まこもはら)に戻したい。一度は開発した耕地を荒れ地とするのは申し訳ないことなので、畑並の年貢を収めるので、願いを聞いてほしいと願い出ている。
3-54 正徳5年御訴訟願書 (戸田家文書)
その後、享保七年(一七二二)には、天領及び旗本池田氏の須賀村と旗本永井氏の須賀村の間で、地先への作付けをめぐる争いが起こったもので、旗本永井宮内知行所の須賀新田村の名主政右衛門(まさうえもん)と組頭伊左衛門(いざえもん)、吉左衛門が旗本池田辰三郎(いけだたつさぶろう)の役人に対して笠原沼の地先への作付けを願い出ている(戸田家文書)。
願書によれば、百間領須賀村名主源七郎(げんしちろう)は笠原沼の内で干上がった場所があると、どこでも作付けをしていたが、不安定な土地なので、私たちも気にしないでいた。しかし、今年の夏は日照りであったため、永井宮内知行所の農民たちが所持する地先へ作付し、収穫があったため、源七郎は年貢を収めると申し出ていると聞いている。私たち地先の者は少しでも地先に作付けをし、年貢を収めるので、今後は源七郎の作付けを認めないでほしいと願っている。
道仏・東・西・百間村と久米原・爪田ヶ谷村との間で用水堰をめぐる争いが、また、道仏村と蓮谷村との間で真菰(まこも)刈り取りをめぐる争いが起こり、享保七年十一月二十五日に幕府の裁許が出されている。(杉戸町海老原家(えびはらけ)文書)二つの争いに一つの裁許状で幕府が判断を下した理由は、二つの争いに対して同一の結論で解決する必要があったからである。
3-55 享保7年用水溜沼論並真菰刈取出入裁許状
(杉戸宿海老原家文書)
道仏・東・西・百間村と久米原・爪田ヶ谷村との間に起こった用水堰を巡る争いでは、道仏・東・西・百間村の農民は、元禄年中に久米原村・爪田ヶ谷村と堰をめぐる争いがあったが、騎西領河原井沼の排水を百間領笠原沼へ溜め、道仏村に堰を築いて下流の用水として利用し、沼の水が満水の時は堰を取り払うという趣旨の証文を所持している。三、四年前から久米原・爪田ヶ谷村の農民たちは沼の内に葭(あし)や真菰を植えてそれぞれの領主へ年貢を収める見取場としてしまったので、少しでも水量が増えると満水となって道仏村の堰を取り払ってしまい、私たちの村の用水が不足するので、葭や真菰を刈り払うようにと主張している。
一方、久米原・爪田ヶ谷両村の農民は、元禄年中の裁許に従って堰を取り払っており、相手村の者たちは定堰とするためにこのようなことを訴えている。もし、定堰になってしまうと沼のまわりの村ばかりでなく、他領の村まで水損となってしまうだろう。沼内に新たに作付したというが、五二年前に私領の村に、三四年前に幕領の村に検地が行われ、このとき沼の内も測量して検地帳に流田と記して面積を記載していると主張している。
道仏村と蓮谷村との間に起こった真菰刈り取りをめぐる争いでは、蓮谷村の農民は、当村の検地帳に載っている流田は毎年のように水損をうける場所であるので、御代官に伺いを立てた上で、真菰を植え付けて真菰銭を上納してきたが、道仏村の農民が大勢で入り込み真菰を刈り捨ててしまったと主張している。
3-56 久米原村流田検地帳
(岡安家文書)
これに対し、道仏村の農民は、蓮谷村の流田は笠原沼の内にあり、真菰は沼中に生い繁っているので、境も分からず、そのままにしておくと用水や排水の差し障りとなるので、検地帳を調べた上で境杭を立ててほしい。蓮谷村の真菰を刈ったことは無く、以前から沼が干上ったときは沼内の真菰を刈ってきていると主張している。
この二つの争論に対して幕府は、笠原沼への葭・真菰の植え付けと道仏村橋下の堰を取り払うことの二つに分けて判断を下している。笠原沼への葭・真菰の植え付けについては、沼の内への植え付けは、道仏・東・西・百間の四か村の農民が検地帳に記載された面積に含まれていないと主張し、久米原・爪田ヶ谷・蓮谷の三か村の農民は記載された面積に含まれていると主張している。この土地が検地帳に記載された面積かどうか分からないので現地を調べてみると、確かに沼の内に検地を行って流田と記載された土地があるが、実際の面積は流田と記載された土地の面積を上回っている。このままでは、笠原沼を用水として使用することに支障が出ることは間違いないので、検地帳に記載された分については境に杭を立てて葭や真菰を植え付け、検地帳に記載された面積以外に葭や真菰を植え付けることを禁止している。
道仏村橋下の堰の取り払いについては、笠原沼が渇水の時期であるため、水量が判断できないので、来春の用水堰を築いた後に見分を行って判断するとしている。