笠原沼をはじめとする埼玉県東部の沼は、溜め池の機能とともに、遊水池としての機能を併せ持つものが多い。江戸時代初期に造成された沼は、下流域の開発を促進すると同時に、周辺耕地の安定をもたらした。各地の開発が進むにつれ、幕府の収入は増加したが、一方で財政支出も増大していった。また、今までの開発手法で開発が可能な土地は減少し、元禄年間には、幕府財政の破綻(はたん)が表面化した。その後、幕府では貨幣の改鋳(かいちゅう)や地方直しを実施し、幕府財政の立て直しを図っているが、その効果は一時的なものでしかなかった。
このような状況のなか、将軍職に就いたのが八代将軍吉宗(よしむね)であった。吉宗は将軍職に就くと今までの政策とは一転し、収入の増加を図るために新田開発を奨励し、収入の安定を図るために年貢の徴収法に定免制を採用している。吉宗が「米将軍」と呼ばれるのは、このような政策の成功によるためである。
享保六年(一七二一)七月、永荒地の開墾を奨励し、地主だけで開墾することが困難な場合には、村中の農民が協力して開発し、開発地の年貢は二、三年または四、五年免除するように勘定奉行に命じている。翌七年七月には、吉宗の政策で最も著名な新田開発令の高札(こうさつ)を江戸日本橋に掲げている。この高札によれば、幕府の領地と大名や旗本の領地が入り組んでいる場所でも、新田開発ができる土地があれば代官と農民が相談し、絵図に詳しく書いて願い出るようにとある。
続いて同年九月には、開発地の領有権を確定するための法令を出している。この法令によれば、開発地に隣接する村の領主が一人ならば、その領主の領地となり、複数の領主ならば、幕府の領地となるというものであった。翌八年には代官が新田開発可能地を見立て、開発が成功した時には年貢の一〇分の一を代官に支給するというものであった。このほかにもさまざまな法令を布達し、同十一年八月には「新田検地条目」三二か条を発して新田の検地について詳細を規定している。この「新田検地条目(しんでんけんちじょうもく)」はその後の新田検地の基準となっている。