吉宗の新田開発政策の中心となったのは、紀州藩時代からの家来である井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)であった。為永が注目したのは、今までの伊奈氏の開発によって形成された多くの沼や池であった。伊奈氏は、下流域の用水源として溜池として沼を形成するとともに、上流域の排水を調節し、下流域の水量を調整するために沼を利用していた。
沼や池を耕地とするためには、沼の水を排水する必要がある。沼の水を排水するために、沼の中央に排水路を開削し、沼の水を排水している。また、用水源を失った下流域のために、ほかの用水源から沼の両側に用水路を開削し、開発地と下流域に用水を供給している。溜井を利用した伊奈氏による開発方法が関東流と呼ばれるが、為永の開発方法は紀州流と呼ばれる新しいものであった。
為永の開発で最も有名な例が享保十三年の見沼の開発である。そして、見沼の開発をするために水量が豊富で安定している利根川を新しい用水源としている。下中条(しもちゅうじょう)(行田市)で利根川から新水路を掘って取水し、荒木村(あらきむら)(行田市)で星川と合流させている。その下流は星川の流路を利用して、上大崎(かみおおさき)地内(菖蒲町)に八間堰・十六間堰を築き、星川から分岐させている。その下流は新たに用水路を掘って見沼まで通水している。途中には、元荒川や綾瀬川など河川との交差点があるが、元荒川との交差点には柴山伏越(しばやまふせこし)を、綾瀬川との交差点には瓦葺掛渡井(かわらぶきかけどい)を築いている。一方、見沼には中落堀を開削し、新田約一二〇〇町歩が造成されている。この大工事がわずか半年で完了しており、当時の土木技術水準の高さがうかがえる。
見沼代用水は、見沼周辺の用水源となったばかりでなく、沿線の用水源として利用したため、各地の沼や池も開発されている。このとき開発された沼は当町の笠原沼をはじめ、小針沼(こばりぬま)(行田市)、屈巣沼(くすぬま)(川里村)、栢間沼(かやまぬま)、小林沼(こばやしぬま)(以上菖蒲町)、柴山沼(しばやまぬま)、皿沼(さらぬま)(以上白岡町)、河原井沼(かわらいぬま)(久喜市)、黒沼(くろぬま)(岩槻市・春日部市)などがある。また、開発時に開削された用水路の名称を見ると、笠原沼と黒沼へ用水を供給した用水路には、見沼と同じように笠原・黒沼代用水と名付けており、笠原沼の開発方法が見沼の開発と同じであったことを示している。