ビューア該当ページ

笠原沼新田の様子

309 ~ 311 / 660ページ
笠原沼が開発されたことにより、享保十四年八月には逆井新田で検地が行われ、享保十九年には笠原沼百間中島村新田(もんまなかじまむらしんでん)や笠原沼久米原村新田で検地が行われている。検地帳によれば、笠原沼百間中島村新田では二町六反七畝が、笠原沼久米原村新田では四町三反二畝が新たに水田となっている。
 笠原沼囲堤は、長さ一〇四〇間の堤で、河原井沼新田悪水落からの排水を除けるものであり、浪欠や押切ができたときは、御入用により御普請が行われている。しかし、軽微な修復は、新田組合の九か村で人足を出し合い、自普請を行っている。また、悪水落堀は、笠原沼新田落口から大落堀落口までの一五一二間で、笠原沼新田悪水堀床は八尺の幅で、中程より下流は床幅が九尺であった。しかし、砂地であるため段々崩れ、その後幅が三、四尺になってしまい、悪水を排水することが困難となったようである。
 笠原沼須賀村新田は窪地であるため掘上田による開発を願い、堀と田が半分ずつの開発を命じられている。笠原沼須賀村新田の掘付田堀敷の分として、享保十六年三月に三反五畝一四歩半があったことが戸田家文書から知ることができる。また、享保十六年七月の戸田家文書によれば、野牛高岩落潰地の代金として二貫六三〇文を受け取っていることが分かり、開発によって生まれた耕地のほかに失われた耕地があったことを示している。また、享保十六年(一七三一)五月には、旗本池田氏(いけだし)知行の須賀村と笠原沼須賀村新田との間で起こった争論に対し、地境の取り決めを行っている(戸田家文書)。

3-59 開発前(江戸初期)の笠原沼


3-60 開発後の笠原沼新田

 元文三年(一七三八)の須賀村分笠原沼新田の作付け状況を見ると、田として把握されている七町九畝二四歩の内三町五反四畝二七歩が作付け可能な耕地で、残りの三町五反四畝二七歩は掘付田の堀敷引分となっている。この内訳を見ると一町七反七畝二五歩が作付した分であるが、一町歩余は水害を受け、一町七反七畝二歩は砂利場となっている。このように笠原沼新田は水害に遭いやすい土地であった。また、田に隣接して堀があったため、用水は引いていないことも特徴の一つであった。
 新しい耕地の造成は、幕府の収入である年貢を増加させる効果をもたらした。しかし、もともと下流への水量を調整する遊水池と下流の用水源であった沼の開発は、さまざまな弊害も生んでいる。沼は窪地にあることが多く、人工的に排水して耕地化したため、大雨が降れば、元の沼に戻ってしまうこともしばしばであった。また、上流の遊水池機能を奪ったことは、余分な上流の水が一気に下流の耕地に流れ、一度洪水が起こればその被害は今まで以上に大きなものとなった。