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『新編武蔵風土記』に見る新田開発

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宮代町における新田開発は、笠原沼の開発が中心であった。しかし、笠原沼を冠しない新田開発も数多く見られ、『新編武蔵風土記』によれば九か村、一八か所が確認できる。最も早く検地が実施されたのは、享保十四年に筧播磨守(かけいはりまのかみ)による逆井新田(さかさいしんでん)と下の谷新田(しものやしんでん)であった。
 逆井新田は、百間村、蓮谷村、中島村の三か村の新田で、百間村では逆井百間村新田と、蓮谷村では逆井蓮谷村新田または逆井浮戸谷新田(さかさいうきとやしんでん)と、中島村では浮戸谷新田(うきとやしんでん)とも呼ばれている。また、中島村では享保十九年に検地が実施されたと記載されており、『新編武蔵』の記載に誤りが見られる。また、下の谷新田は、百間村と中村、東村の三か村の新田であった。
 笠原沼新田の記載がある村は、百間村、中村、東村、中島村、蓮谷村、須賀村の六か村である。百間村、中村、東村の三か村には、享保十三年開発の記載が見られる。また、須賀村の検地年代の記載は享保十四年となっているが、他の五か村は享保十九年となっている。検地役人の記載は百間村、中村、東村、須賀村の四か村に見られ、すべて筧播磨守となっている。百間村の記載には、下の谷新田と合わせて百間西原組新田と呼ぶともある。久米原村には持添新田(もちぞえしんでん)があるとの記載があるが、詳細についての記載が見られない。これも久米原村の新田開発の状況から笠原沼新田のことを差していると推測できる。

3-61 笠原沼中島村新田検地帳
(岩崎家文書)


3-62 笠原沼久米原村新田検地帳



3-63 笠原沼新田絵図 (岩崎家文書)

 このほか、東村は、明和六年に宮村孫左衛門(みやむらまござえもん)によって検地が行われたことも記載されており、新田が開発されたことがわかる。また、百間四か村請新田が村としてとりあげられている。百間四か村請新田は、東村、中村、中島村、蓮谷村の秣場を明和八年(一七七一)に東村の徳左衛門(とくざえもん)が開発し、同年蓑笠之助(みのかさのすけ)が検地を実施している。
 享保期以降の開発方法の一つとして流作場(りゅうさくば)新田がある。先に述べた新田開発が沼の干拓による大規模なものであったのと比べ、流作場新田の開発は、河川敷などの不安定な土地への耕作を認め、作柄に応じた年貢を徴収するために耕地化を図ったものである。宮代町における流作場新田は古利根川の流域に分布し、『新編武蔵』には百間村と和戸村の二か村、四か所が確認できる。
 百間村では、百間西原組新田、百間村新田、百間中村新田と呼ばれる三か所が流作場新田であったと考えられる。『新編武蔵』によれば、百間西原組新田は享保十五年に筧播磨守によって検地が実施されたとある。百間西原組新田は、午高入百間西原組新田(うまたかいりもんまにしばらぐみしんでん)を差すものと考えられ、現在の松の木島付近を流作場として検地し、耕作地として把握したものと推測される。推測が正しいものと仮定すれば、『新編武蔵』の記載は誤りである。百間西原組新田が午高入百間西原組新田であるとすれば、検地が実施年代は寛延二年(一七四九)で、検地役人は神尾若狭守(かみおわかさのかみ)、曲測豊後守(まがりぶちぶんごのかみ)、遠藤六右衛門(えんどうろくうえもん)であったと思われる。
 百間村新田は、午高入百間村大寿院請新田のことであり、寛延二年に神尾若狭守、曲渕豊後守、遠藤六右衛門によって検地が行われている(折原家文書)。大寿院請とは、大寿院が開発をしたという意味で、江戸本所(えどほんじょ)にあった寺院が開発した新田であった。百間中村新田は、清九郎請と呼ばれ、中村の清九郎が開発している。検地年代は寛延二年と記載されているが、検地役人の記載は見られない。午高入大寿院請新田が現在の清地橋の上流に、清九郎請が下流に位置し、両新田の検地帳の記載から清九郎請新田の検地役人も大寿院請新田と同様に神尾若狭守、曲渕豊後守、遠藤六右衛門であった(小島家文書)。

3-64 宮代町内享保以後の新田分布図


3-65 新編武蔵風土記にみられる新田開発の年代

 和戸村には、持添新田ありと記載があり、安永元年に久保田十左衛門(くぼたじゅうざえもん)が検地を実施したとの記載が見られる。これも古利根川流域の流作場の一つと思われる。