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さまざまな道

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町域には中世、鎌倉道という当時の主要道が通っていた。近世になると、どのように変化していくのだろうか。
 近世末の町域の道を一覧的に知るために、明治前期の資料を使ってみてみよう。
 3-74から近世末の町域の主要道をみると、最も道幅の広い道は、岩槻~幸手間の道程中に町域を通っていた④日光御成道であった。巾四間は約七・二メートルほどにあたる。『武蔵国郡村誌』の道幅は、今日の舗装道路のように必ずしも全区間が同じ道幅であったわけではないが、一応の目安とはなる。そのほかの主要道は巾二間ほどで、①久喜(くき)、粕壁(かすかべ)など町場・宿場への往還道、②③⑤御成道へ通じる岩槻道・村道であった。特に②・③は、日光道中の杉戸宿からそれぞれ百間村・須賀村(もんまむら・すかむら)を抜けて、御成道へ通じる道であった。大まかにいって、杉戸宿(すぎとじゅく)から御成道、久喜、粕壁へ向かって放射状に延びた道が町域を横断していた。
 続いて3-73をみると、さらに多くの道筋が町域を通っていたことがわかる。百間など村内に多くの集落がある村では、集落間を結ぶ道や、粕壁道に大きく三ルート(太田新井(おおたあらい)村から台地上を内牧村(うちまきむら)へ向かう道、西光院から隼人堀川の谷間を抜けて内牧村へ向かう道、百間東村(もんまひがしむら)から古利根沿いに梅田村へ向かう道)があったことに気付くだろう。

3-73 明治前期の地籍図にみられる道


3-74 「武蔵国郡村誌」にみられる宮代の道